伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

インドネシア(親日の国)

 【ジャカルタにあるインドネシア独立宣言記念碑】


 インドネシアは17世紀初頭から、オランダの支配に苦しめられてきた。


 1942年3月1日、ジャワ島に上陸した今村均中将率いる帝国陸軍第16軍は、僅か9日間でオランダ軍を制圧して、インドネシアを約300年間に亘る白人の支配から解放した。


 インドネシア民衆は、「*ジョヨボヨ王の予言が実現した」と歓喜し、各地でメラプティ(後にインドネシア国旗となる紅白旗)を振って日本軍を歓迎した。

 *ジョヨボヨ王の予言については、次のとおり↓



 その後、日本軍はまず、流刑されていたスカルノやハッタら独立運動の指導者を解放し、迫害されていたイスラム教の存在を認めて宗教活動を自由とした。
 また、オランダによる愚民政策を廃し民衆の教育制度を充実し、農業指導や軍事指導にも努めた。
 それまで公用語として強制されていたオランダ語と英語を廃し、多くの言語に分かれていたインドネシアに共通語を定めて、民衆の意思統一を図ることにも力を入れた。
 こうして日本軍の指導の下、インドネシアの独立準備は3年半に亘り続けられた。


 1945年8月15日に日本がオランダを含む連合国に降伏し、インドネシア念願の独立が反故になることを恐れたスカルノら民族主義者は同17日、ジャカルタで独立を宣言した。(独立宣言文の日付は日本の皇紀を用いている)


 しかし、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダと独立戦争を戦うことを余儀なくされた。
 インドネシア人の側は、外交交渉を通じて独立を獲得しようとする外交派と、オランダとの武力闘争によって独立を勝ち取ろうとする闘争派との主導権争いにより、かならずしも足並みは揃っていなかったが、日本軍進駐前の300年間に及ぶオランダによる峻烈な搾取を排除し独立を目指す人々の戦意は高かった。


 また、この独立戦争には、日本軍籍を離脱した一部の日本人約3,000人(軍人と軍属)も加わって最前線に立って戦い、その結果1,000人以上が命を落とした。


 この人数は日本軍の蘭印侵攻時の戦死255名、負傷702名を遙かに上回るものだった。


 彼らが日本人でありながらインドネシアの独立戦争に参加した動機はさまざまである。
 戦前・戦中、日本が大東亜共栄圏、東亜新秩序を打ち出していたことから、欧米からのインドネシア解放・独立の理念に共感した者や、日本に帰国して戦犯として裁かれることを恐れたためにインドネシアに残留した者、また日本軍政期に各地で結成された郷土防衛義勇軍の教官としてインドネシア人青年の訓練にあたった者の中には、その教え子たちに請われて独立戦争に参加した者もいる。


 独立戦争は4年以上続き、オランダに対する国際的な非難は高まっていった。
 最終的に、インドネシアの共産化を警戒するアメリカの圧力によって、1949年12月、オランダはインドネシアの独立を認めた。


 独立戦争で命を落とした元日本兵は、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ、各地の英雄墓地に葬られ、戦後生き残った元日本兵も、インドネシア国籍を与えられたインドネシア人として、これらの墓地に埋葬される予定である。


 1958年に訪日したスカルノ大統領は、日本へ感謝の意を表し、独立戦争で特に貢献した日本人に対し感謝の言葉を送った。


 また次に大統領になったスハルトは、インドネシア独立に尽力した旧日本軍人に対し、1976年以降順次、建国功労章や独立名誉勲章などを授与して、その功績に報いた。


 1977年マニラでの国際会議で、インドネシアの大統領特別補佐官アリ・ムルトポ准将は、日本を激しく責めたてる韓国代表を窘(たしな)めて、次のように発言した。
「日本はアジアの光である。大東亜戦争はアジアの独立のための戦争であったゆえ、本来ならアジア人が戦うべきであったのに、日本人が敢然と立ち上がって犠牲になった。」                 


 2002年、後に大統領になるユドヨノ調整大臣は、当時、自民党の山崎拓幹事長に対して「日本軍の進攻が我がインドネシアの独立につながった」と明言した。



 2013年10月16日、ジャカルタの病院で台湾出身の一人の元日本軍兵士が亡くなった。


 彼は日本統治時代の1922年に台南で生まれた台湾人の李柏青、当時は日本国籍で日本名宮原永治氏である。
 大東亜戦争の勃発後に志願して日本軍に入隊、フィリピンやミャンマーなどへ転戦した。終戦後は連合軍に投降せず、約900人の戦友とともにインドネシアのゲリラ部隊に参加しオランダと戦った。
 独立してからもおよそ300人の仲間と同地に留まり、2005年には建国60周年記念式典でユドヨノ大統領から新たに制定された建国の英雄勲章を授与された。
 これは、外国人としては初めての受章だった。


 生前のインタビューによると、宮原氏は1974年に一度台湾へ戻ったが、当時は国民党政府による白色テロ全盛の時代でもあり、過去にミャンマーで国民党軍と一戦を交えた経験もあることから身の危険を感じ、両親と顔を合わせたあと、インドネシアにとんぼ返りしたと語っている。
 その後、日系人コミュニティーの活動に積極的に参加して日本語を教えるなどし、インドネシアの女性と結婚してから地元国籍を取得、3人の子宝にも恵まれたが、2013年10月16日、ジャカルタの病院で91歳の生涯を閉じた。


 宮原氏は、インドネシア独立と建国に貢献した功績により国軍の英雄墓地に埋葬された。
 これは同国政府の最高の敬意を表すものとされる栄誉で、27歳になる宮原氏の孫は、「生前から独立戦争の話を聞かされていた。祖父も参加したことを誇りに思っていた」と語った。



 【10万ルピア札に印刷されている独立宣言書】
 (年号は、西暦1945年ではなく、皇紀2605年として書かれている)


     Proklamasi


  Kami bangsa Indonesia dengan ini menjatakan kemerdekaan

Indonesia.

 Hal-hal jang mengenai pemindahan kekoeasaan d.l.l., di

selenggarakan dengan tjara seksama dan dalam tempo jang se

singkat-singkatnja.


         Djakarta, hari 17 boelan 8 tahoen 05

         Atas nama bangsa Indonesia.

         Soekarno/Hatta



     独立宣言


 我らインドネシア人民はここにインドネシアの独立を宣言する。

 権力及びその他の委譲に関する事柄は、完全且つ出来るだけ迅速に行われる。


        ジャカルタ、05年8月17日

        インドネシア人民の名において

        スカルノ/ハッタ

   (「05年8月17日」とは、「皇紀2005年8月15日」の意)


 追記:

 2018年アジア競技大会がインドネシアで開催されているのを機に本記事を加筆しました。  2018.8.26伊賀山人