伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

凛として(広島の思い出)

 【広島原爆ドーム】


 昭和30年ごろ、私は、医師である父親の転勤に伴い広島県の三原市に住んでいたことがあります。


 戦後まだ10年を過ぎないその頃、近所には多くの原爆被害者が住んでおりました。


 当時、広島では原爆のことを「ピカドン」と呼んでいたことは子供心にも覚えています。


 広島に住み始めて程なく、私は幼稚園の帰り道で、一人の娘が農家の塀の外で切り芋を干しているところを通りすがりました。


 その娘が、「持って行きんさい」と言いながら、幾つかの既に干し終わった芋(甘薯)をつまんで私に差し出しました。


 食糧不足のその時代、常に飢えていた私は、喜んで手を差し出しました。


 芋を受け取り、娘の顔を見上げて、驚愕しました。


 娘の顔の片半分は、ケロイドとなって融け落ちており、目も鼻も口も凡そ人の形のものではありませんでした。


 何か化け物にでも出会ったかのような恐怖心に襲われた私は、芋を放り出して逃げ去ってしまいました。


 その20歳前後の娘が10年前のピカドンの被害者であり、旬日を経ず、白血病により私の父親の勤める病院で亡くなったことを知るのに、さほど時間は要しませんでした。


 彼女の受けた身体の痛みや苦しみには想像を絶するものがあります。


 ましてや、ピカドンさえなければ最も輝いていたはずの娘盛りに、他人からの偏見や差別に曝されて受け続けた心の傷は、恐らく原爆症に苦しめられた短い生涯を通して誰にも理解はされず、そして癒えることはなかったでありましょう。


 そのような彼女が、顔の傷を隠すこともなく、飢えた幼稚園児に貴重な食料を分ち与えながら凛として生きていたのであります。


 もしも、時間を遡ることができるのなら、60年前のあの日に戻って、改めて芋を受け取り彼女に一言礼を言いたい。


 彼女の慈愛に満ちた心に比べ、自らの狭量さと差別的な行動が更に娘心の傷口を広げてしまったことに思いを致す時、彼女の数倍の時間を生きてきた今となっても慙愧に堪えません。