伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

長崎の鐘(永井隆博士のこと)

【爆死した妻の為に喪に服す永井隆博士(昭和21年1月)】


 20年ほど前、長崎市の永井隆記念館を訪れた折、偶々、博士の娘の茅乃(かやの)さんにお会いして、博士の事績について親しくお話を聞く機会を得ました。
 なお、茅乃さんは、被爆時3歳、博士が永遠の眠りについたときでも8歳でしたので、その記憶は、それほど詳細なものではなく、博士の著書から得たものや他人からの伝聞もあるとのことでした。


 永井博士は、1908年(明治41)2月3日、島根県松江市生まれ。1932年(昭和7)長崎医科大学卒業後、同大付属病院にて放射線医師として勤務していました。
 戦時中は、X線フィルムの入手が困難であったため、直接透視という危険な方法で診断を続けていたため、1945年(昭和20)6月には、過度の散乱放射線被曝による慢性骨髄性白血病で「余命3年」と診断されたそうです。
 その2ヶ月後の8月9日、長崎市に投下された原子爆弾で、爆心地から僅か400メートルの位置にあった病院は壊滅的被害に会いました。
 博士自身も、右側頭動脈切断の重症を負いましたが、自ら止血処置をして、直ちに被爆者の救護活動にあたりました。
 被爆時から、昼夜を分かたず不眠不休の治療を行っていた博士には、家庭を顧みる余裕がありませんでした。


 ふと我に返って「家はどうなっているんだろう? 一度見に行かなくては」と思いついたときには、既に被爆から三日を経過していました。その途端「緑は!?」そういえば、被爆の日から妻の緑(みどり)に会っていません。
 急いで病院の隣の浦上天主堂近くにある自宅に帰って見ると、自宅があったはずのところには瓦礫のほかには何もありません。懸命に探すうち、台所だったところの隅のほうに小さな黒い塊がありました。骨盤と腰椎の一部でした。その脇に妻がいつも身に付けていたロザリオが残されていました。


「緑っ、緑―っ!」 博士の頬を、滂沱の涙が止め処なく流れました。


 【緑夫人のロザリオ】


 救急で息つく暇も無かったとはいえ、自宅の被害の程度が分からなかったとはいえ、どうして妻のことを忘れてしまったのか、なぜ直ぐに帰ってやらなかったのか、なぜ当日少しでも側で祈ってやれなかったのか。
 博士は自責の念にかられ、後に疎開先から呼び戻した二人の子供と住んだ2畳一間の
<如己堂(にょこどう)>で、原爆の悲惨さを書き残す決心をします。

 筆者注:

 <如己堂(にょこどう)>の名の由来は、新約聖書マルコによる福音書12章31節にある「己の如く人を愛せよ」との句に因むものです。

 <如己堂>は、今でも保存公開されており、その隣接地に<永井隆記念館>が建設されています。


 妻を失った悲しみのなか、その後も博士は被災者の救護活動を続けましたが、翌1946年(昭和21)の年末には自身の病状が悪化し、寝たきりの生活を余儀なくされてしまいました。


 その体に鞭打って、「長崎の鐘」「この子を残して」「ロザリオの鎖」など17冊の著書を書き上げて恒久平和実現を広く訴えました。


 博士は、著作で得た収入の大半を、長崎市の復旧・復興のために寄付しました。また、愛する浦上の地を再び花咲く町にしようと、小中学校、高校、浦上天主堂に桜の苗木1,000本余りを寄贈。更に、両親や兄弟を奪われて荒んでしまった孤児達の心を豊かにしようと、小さな図書館「うちらの本箱」を設け、子供たちに生きる希望と勇気をあたえました。


 「長崎の鐘」とは浦上天主堂にあった<アンジェラスの鐘>のことで、原爆で崩壊した瓦礫の中から掘り出され、有志の手で仮鐘楼に安置されて再び美しい音色を流し始めて復興のシンボルとなりました。この鐘は、今でも再建された天主堂で澄んだ音色を響かせ、世界平和を訴えています。
 永井博士は、この長崎の鐘の音を聞きながら、妻・緑の冥福を祈り、長崎の復興と世界の平和を願いつつ1946年(昭和21年)8月に書き上げた最初の著書の題を「長崎の鐘」と名付けました。
 この著書は、GHQ(連合軍総司令部)の検閲によりすぐには出版許可が下りず、1949年(昭和24年)1月になって出版されました。


 同年7月にはサトウハチロー作詞・古関裕而作曲、藤山一郎の演唱による同名の歌謡曲『長崎の鐘』が発売されて大ヒットし、翌1950年(昭和25年)には松竹が製作した同名の映画が公開されました。


 国民的大歌手の藤山一郎は、この歌が縁で永井博士との交流が始まり、博士を見舞ったときにその返礼として博士自作の次の短歌を贈られました。

新しき朝の光のさしそむる 荒野(あれの)にひびけ長崎の鐘

 その後、藤山ははこの短歌に曲をつけ、『長崎の鐘』を歌う際に続けて『新しき朝』を歌うようになりました。



【浦上天主堂のアンジェラスの鐘(長崎の鐘)】


 博士は、それからも著作を続けましたが、1951年(昭和26)4月、「乙女峠」脱稿を最後に容態が急変、同年5月1日、幼子二人を残したまま天国の妻のもとへと旅立ったのであります。
 5月3日に先ず浦上天主堂でミサが捧げられ、同日に長崎市は市公葬を行うことを決めました。
 5月14日 9時から浦上天主堂で執り行われた長崎市公葬には約2万人の市民が参列しました。
 長崎市長の田川務は総理大臣の吉田茂等300通の弔電を1時間半にわたって読み上げました。
 正午に浦上天主堂の「長崎の鐘」が鳴ると全市の寺院、工場、船舶の汽笛が一斉に鳴り響き、長崎市民は1分間の黙祷を捧げました。
 その後、博士の亡骸は長崎市坂本町にある国際外人墓地に緑夫人と共に葬られたのであります。


 永井隆博士享年43歳。妻の緑の旅立ちから5年9箇月後のことでありました。
 短い生涯の中で数々の偉業を達成した永井博士の平和への祈りは、歿後70年近くを経た今でも人々の心の中に生き続けているのであります。


                    合掌



 次の動画は、藤山一郎の「長崎の鐘」の昭和24年、昭和34年、昭和42年の録音三部作です。永井博士の短歌は、昭和34年版で録音されています。

藤山一郎/長崎の鐘



 長崎の鐘       長崎之鐘


こよなく晴れた 青空を     沒有一片雲的 藍天
悲しと思う せつなさよ     悲哀地想的 痛苦也
うねりの波の 人の世に     蜿蜒的波浪的 向人世
はかなく生きる 野の花よ    短暫生活的 野的花
なぐさめ はげまし 長崎の   相安慰 相鼓勵 長崎之
ああ 長崎の鐘が鳴る      啊啊 長崎之鐘響矣


召されて妻は 天国へ      被召見妻子 向天国
別れてひとり 旅立ちぬ     分別是一個人 出發也
かたみに残る ロザリオの    留存在遺物的 祈禱用的念珠
鎖に白き わが涙        上鎖鏈白的 我眼淚落
なぐさめ はげまし 長崎の   相安慰 相鼓勵 長崎之
ああ 長崎の鐘が鳴る      啊啊 長崎之鐘響矣


こころの罪を うちあけて    心的罪 説出神而
更け行く夜の 月すみぬ     深去的夜晚的 月皓皓
貧しき家の 柱にも       對貧窮的房子的 柱子
気高く白き マリア様      高尚很白的 瑪麗亞像
なぐさめ はげまし 長崎の   相安慰 相鼓勵 長崎之
ああ 長崎の鐘が鳴る      啊啊 長崎之鐘響矣


(永井隆博士自作の短歌)
「新しき朝の光の さしそむる荒野にひびけ 長崎の鐘」
「新的早上的向光 震響被照的荒地 長崎之鐘」


 筆者注:

 平成30年8月9日、「長崎原爆の日」にあたり、加筆しました。


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