伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

ラオス(影の薄い共産主義の国)


 【ラオス北部の古都ルアンパバーンにある仏教寺院ワット・シエントーン】


 ラオスは、戦前までフランス領インドシナの一地域であったが、日本軍がフランスを追い払った後、終戦4箇月前のの1945年4月8日に日本の協力の元、独立宣言をした。
 戦後は、再びフランスの占領下にあったが、1953年10月22日、フランス・ラオス条約により完全独立を達成した。


 政治体制は、マルクス・レーニン主義を盲信する共産主義国家である。
 一時期中共とは関係を断絶したこともあるが、現在では、殆ど属国状態に陥いっている。


 人口700万足らずの小国で国際的な影響力も小さく、対日感情もよく分からない影の薄い国であるが、以下、ラオスの現状について、週刊新潮の記事をそのまま引用する。


「メコン川にマンハッタンのようなビルが並び立ち、ラオスは中国に乗っ取られます。中国のアジア進出を傍観しては、日本の存在感はますます希薄になります」


こう語るのは日本在住のラオス人研究者である。時計回りに、ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマー、中国の5ヵ国に包み込まれる形のラオスを舞台に、ここ数年、凄まじい中国進出が進行中だ。歴史的にラオス、カンボジア両国に強い影響力を及ぼしてきたベトナムが力を喪い、中国が取って代わり始めている。


「直接のきっかけは2009年の東南アジア競技大会がラオス主催になったことです。大規模競技場の建設資金も技術もないラオスのために、中国政府が8,000万米ドルをかけて競技場を造り、ラオスに贈りました。無償でヒモはついていないはずだったのが、いつの間にか、首都ビエンチャンの中心部一帯の広大な地域の50年間の賃借権を中国政府が得ていたのです。そこに5万人程が住むチャイナタウンがすでに造られつつあります」


06年の世界銀行統計で、ラオスの総人口は約580万人、ラオス在住の中国人は少なく見積もって約3万人と言われる。が、08年4月の米エール大学報告書は、中国人人口は、実際はその10倍に上ると指摘する。


これらのいわゆる゛旧中国人〟に加えて、いま、5万人の゛新中国人〟用の町が建設中なのだ。首都の一等地に、いきなり総人口の約1%、首都人口の10%弱の外国人町が生まれることへのラオス国民の懸念は深い。


香港の『アジアタイムズ』紙、マッカータン記者の報道(7月26日付)によると、ラオス政府中枢からも、゛決定過程が不透明〟゛政府要人でさえ発表後に初めて知った〟などの批判が噴出しているという。前述のラオス人研究者は、これでは首都中心部が中国に奪われたも同然で、5万人の中国人はあっという間に倍増、倍々増して、ラオス全体を席捲すると懸念する。内外の批判を意識したのか、ラオス政府は゛中国人町〟という表現を使わずに、ラオス・中国友好センターと呼ぶよう指導中だ。


中国の望む資源開発

ラオスは19世紀末、フランス領インドシナ連邦に編入された。日本が第二次世界大戦に敗れたあと、フランスは、ラオスの独立運動を弾圧し、再び支配を強める。フランス支配の柱のひとつが、1950年代末にはラオスの商業取引の80%を支配するに至った中国人の排斥だった。1953年、ラオスは独立を勝ち取る。75年の社会主義革命で君主制が廃されて、誕生した社会主義政権も、財産没収、中国人学校の閉鎖、中国語新聞の廃刊などの措置で中国人を排斥した。


一方、79年に、中国はラオスに強い影響を及ぼすベトナムに侵攻。鄧小平は「ベトナムを懲罰する」と公言したが、惨憺たる敗北を喫した。中国は、その後の89年、天安門事件で国際的に孤立する。その中国に関係改善の誘い水を向けたのがベトナムだ。仲介したのがラオス政府だ。91年、ベトナムと中国は国交を正常化した。中越関係の改善が、ベトナム、ラオス、カンボジアへの中国の進出に役立った。特に97年から98年のアジア通貨危機直後、中国は猛然と援助外交を展開した。


2000年、中国の国家元首として初めて、江沢民主席がラオスを訪れた。以来、これが中国の゛ソフトパワー〟外交だというべき外交を展開してきた。03年には国立文化会館を、04年にはその周囲の記念公園を整備した。中国政府は03年に多額の借款の返済も免除した。一方的に与える関係のなかで、中国はいまや、総額6億7,6000万ドル、236に上るプロジェクトをラオスで勝ち取っている。96年の中国の対ラオス投資は300万ドル、12年間で225倍に急増したことになる。


中国の投資は全体の3分の1が水力発電の開発に振り向けられ、残りの大半が金、銅、鉄、カリウム、ボーキサイトなど、中国が必要とする資源の開発に充てられている。一方で、中国の需要を反映してラオス国土のかなりの部分がゴムプランテーションになった。ラオスの豊富な天然資源が中国の望むままに開発され、供給されているわけだ。


国の富が中国に奪われていく中で、日常生活の場で、ラオス人に中国の豊かさと力を見せつけることも忘れない。そのひとつが07年8月1日開業したラオス初の大規模ショッピングモールだ。首都で華々しくオープンした大商業施設には300店舗がある。200はすでに中国人企業家が占め、残りがラオス人に割り当てられる予定だ。扱う製品の80%が中国産品で、同施設は前述のラオス・中国友好センターの一部となる。


ラオスの中国人町は、ボテンボーダー貿易センター、ノンドゥアン中国人町に続いて、これで三つ目だ。


ラオスの「中国語教育」

ラオス政府は認めないが、中国人町の住人はほぼ例外なく中国人だ。扱われる物品は中国製、売るのも買うのも中国人、その町のホテルで働くのも、宿泊するのも、およそ全て中国人。つまり、ラオス人に幾分かのスペースを割り当てると言っても、彼らは結局追い出され、中国人が席捲する。


一定の豊かさを与えることで、より多くを奪う中国。そのプロセスで、一般の国民は虐げられ、一部の要人たちが途轍もなく潤う仕組である。こうして中国政府は、ラオス政府中枢を搦め捕る。同時に、教育面からラオスの中国化も進めつつある。


中国語で教育する華文学校がラオスに設立されたのは1937年。2001年には高校までの一貫校となった。敷地5万7,000坪のキャンパスで、小、中、高の、間違いなくこの国のエリートとなる1,300名余が学ぶ。1980年以降、ここでは中国の教科書が使用され、中国の価値観が植えつけられている。


ラオス人研究者が訴えた。

「ラオス人は中国に完全に支配され、ラオス人であることを見失っています。中国政府は、ラオス政府の腐敗も愚かさも、中国の統治をスムーズに行うためには好都合だと考えています。ラオス政府の腐敗、秘密主義、独断専行に、心あるラオス人は憤っていますが、どのように抵抗すればよいのかわかりません」


日本も米国も欧州諸国も、援助に際して民主主義、人権、自由への配慮を条件とするが、中国共産党はそのようなことは関知しない。ダルフールで虐殺を続けるスーダン政府に援助を続け、石油資源を漁るのと、全く変わらない。


 今年8月、ようやく、日本とラオスとの投資協定が発効した。これまで日本は、ラオスのインフラ整備など地味な分野にODAを与えてきたが、余程目配りしなければ、この中国優勢の流れは止まらないだろう。国内政治にばかり気を取られている余裕は、日本にはないのである。(週刊新潮)