伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

伊賀山人回顧録(小原台の青春その18:22歳 卒業準備)

 1973年(昭和48年)1月空手部を引退した伊賀山人は、卒業準備に余念がなかった。
 2月の誕生日以降は、目の回る忙しさであった。
 

 【昭和48年2月8日 この日22歳になった伊賀山人】


 【卒業研究中の伊賀山人】
 研究テーマは、「カメラの解像度」、実は、その内容は、高校生の時に既に大方知っている内容であった。
 研究は、伊賀山人の知識に基づくその理論を裏付ける実験が殆どであった。
 とは言うものの、この卒研に合格しなければ、やり直すことは不可能であり、即刻留年となるので、真剣に取り組まなければならない。



 【目の回る忙しさで、目が回っている伊賀山人】



 【共同研究者】
 相棒は、1年の時から世話になっているT。
 偶々、4年になって同じ基礎工学専攻になり、更には、卒研も精密工学で一緒に取り組むことになった。



 【チャート】
 後方のチャートを用いて、各種レンズとカメラとの組み合わせによる解像度などを解析する。



 【研究室の廊下】
 研究は、深夜まで続いた。
 廊下には、誰一人いない。



 【テネシーワルツ】
 某大名物の卒業記念ダンスパーティーである。
 会場は、東京の京王プラザホテルであった。


 もちろん、社交ダンスオンリーであり、最近の歌手が歌う時に後ろの方ででバタバタしているような奇抜なダンスではない。
 ダンスパーティーに備えて、卒研の合間に1週間ほど付け焼刃でワルツやジルバなどいくつかの型を習った。
 特にパートナーがいるわけでもなし、礼儀として壁の花になっている(=ダンスに誘われず壁際に立っている)女子を相手に2~3曲踊って、後は自ら壁の花(?)になって、一人で酒盛りをしていた。


 1曲目は、パティ・ペイジの「テネシーワルツ」。
 この曲の内容は、「ダンスパーティーで出会った友達に自分の恋人を紹介したら、その友達が自分の恋人を盗んでしまった。」というような失恋ものであり、パーティー開始の曲にしては意味深長であった。



テネシーワルツ パティ・ペイジ 聴き比べ
 
 会場に準備されていた酒は、甘口のカクテルが多く、飲み放題であった。
 ジュースみたいで飲みやすかったので、全種類を飲み比べていたら、結構アルコール度数が高く、後で効いてきた。
 ダンスパーティーで踊りもせずに酒を飲んでいるような者など殆どいなかったので、伊賀山人一人で、100人分くらいを飲んだような気がする。


 【チェインジング パートナーズ 】
 壁際で酒を飲んでいる私のすぐ横で、なかなか現れないパートナーを待って壁の花になっている女子がいた。
 他人とは踊りたくなかったようで、敢えて私の傍で私をパートナーに見せかけていたのだと思う。


 どんな事情があったのか詳しくは聞かなかったが、パートナーたる男は、夜中に婦女子を連れ出すのであれば、自宅から会場までの往復共にエスコートすべきである。
 更に、その父兄に挨拶して、帰宅時間くらいは告げておくべきであろう。
 そのようなことは、どの法律にも書かれてはいないが、男の流儀というものである。


 今でも、パティ・ペイジの「チェインジング パートナーズ」を聞くたびに、この娘の曇った顔を思い出す。 



Patti Page - \"Changing Partners\" (1950s)


We were waltzin' together to a dreamy melody
(夢のようなメロディにのって私たちは共にワルツを踊っていたのに)
When they called out "Change partners"
(そこへ、誰かの「パートナーを代わってください」という声が聞こえて)
And you waltzed away from me
(あなたは踊りながら私から離れていってしまった)
Now my arms feel so empty as I gaze around the floor
(今私の両腕は空しさを感じるばかりで、私はただフロアを眺め廻している)
And I'll keep on changing partners
(そして私はパートナーを代え続けている)
Till I hold you once more
(もう一度、あなたを抱くその時まで)


Though we danced for one moment and too soon we had to part
(私たちが踊っていたのはほんの一瞬だけだったのに、あまりにも早く離れなければならなかった)
In that wonderful moment somethin' happened to my heart
(けれども、その素敵な瞬間に私の心の中に何かが起こった)
So I'll keep changing partners till you're in my arms and then
(だから、私はパートナーを代え続ける、あなたが私の腕の中にまた戻ってくるまで。そしてそのときは…)
Oh, my darlin' I will never change partners again
(ああ、私のあなた… もう二度とパートナーを代えたりはしないわ)




 【伊豆土肥温泉にて】
 有志5人を募って、会費を積み立て、卒業記念の旅行に出かけた。
 この時ばかりは、一世一代の貴族の旅行であった。


 会費は、一人5万円であった。
 現在の貨幣価値では、10万円以上であろうか。
 その半分近くが、挙げた芸者5人分の玉代(料金)であった。


 当時の玉代は、1本3000円位であった。
 1本と言うのは、大体30分で、その昔線香を灯して時間を計った名残である。


 正直言って、芸者遊びというものは、若者にとっては決して面白可笑しいものではない。
 まず、やって來るのが大抵の場合、80歳くらいを筆頭とする中高年の芸者である。
 どんな年寄りでも、「お姐さん」と呼ぶのは、旅館の女中と同じである。


 芸者は、確かに三味線、琴、長唄、小唄、都都逸、謡曲、日本舞踊など、ありとあらゆる芸に通じている。
 しかし、本来の芸者の役割は、客の芸を引き出すことにある。
 大石内蔵助が、京都の一力茶屋で遊ぶようなもので、客の方が小唄や都都逸或いは舞いや踊りの一つや二つが出来なければ、余り楽しいものではない。


 明治の元勲が好んだ芸者遊び、面白いかどうかは別にして、それが粋なのだと信じて疑わない伊賀山人22歳の春であった。
 


 【翌朝、土肥の海岸にて】
 二日酔いが醒めて、寒くなってきた。
 懐の方は、もっと寒かった。



 【土肥金山】
 金の延べ棒などは、落ちていなかった。