伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

補破網

 「補破網」は、1948年(昭和23年)に發表された台湾の代表的歌謡曲の一つです。
 作詞者は、1933年(昭和8年)に「望春風」で乙女心を切々と詠じて一世を風靡した詩人李臨秋(リ リンシュウ)です。


 詩題の「補破網」とは、破れた網を修補するという意味です。


 当時、既に38歳で未だ独身であった李臨秋が、ある年の七夕の日に些細なことから恋人と喧嘩別れをしてしまいました。
 その彼女の心を呼び戻してやり直そうと考えて作ったのが、この「補破網」です。


 この詩が出来上がるとすぐに、友人の王雲峰(オウ ウンポウ)に作曲を依頼しました。
 曲が出来上がると、知り合いの楽団を引き連れて彼女の家に赴き、彼女の前でこの「補破網」を歌いました。
 そして、目出度く二人の仲は漁網のように修復されて元通りの仲の良い恋人同士に戻ったと伝えられています。


 ところが、この曲は、当時の台湾では公に演奏されることはありませんでした。
 台湾では、その前年の1947年、国民党政府による本省人虐殺事件、所謂「二二八事件」が起こり、戒厳令が布告されておりました。
 そのため、全ての楽曲は、発表前に検閲を受けることになっていましたが、この「補破網」の「破れた網を修補する」という内容が、疲弊した人々の希望を呼び起こし励ますという意味にもとれる反面、平穏に生活するために必要としている網を破るかのように社会的混乱を招いた国民党政府を暗に批判しているともとれることから、そのままの歌詞での歌唱を禁止されてしまいました。


 この頃、同名の舞台演劇も企画されていたことから、李臨秋は、この詩が政府批判と解釈される余韻を消すため、元々1節と2節だけで完結していた詩の後に、説明的な第3節を付け加えて、舞台演劇に限っては公演で歌唱できる許可を受けました。
 しかし、公にラジオやテレビで放送できるようになったのは、何と30年後の1977年のことでありました。


 原詩の第1節は「破れた網を見ると泣けてくる」と歌い始め、第2節の最後は「全精神を傾注して網を直そう」と歌い上げて終わっています。
 このように余韻を残して終わっているからこそ、只の失恋ソングの枠を超えて、多くの人々の心に響き、また当時の混乱した時代を象徴して、より良い未来を築こうという呼びかけにもなったのであります。
 当然ながら、李臨秋が恋人の前で歌ったのも2節までです。
 ところが、政府の圧力に屈して付け加えた第3節は、「魚がたくさん獲れて春が来る。もう網を直さなくても済む」というようなもので、網は既に修復されているので政府批判の誹りも受けないでしょうが、これでは単に破れ網を修理する漁師の平凡な日常生活を歌っているだけのものになってしまい余情が生じません。


 詩情としては、2節までに留めて余韻を残しておいた方が傑作といえるのであり、後で付け加えた第3節は、全くの蛇足です。
 生涯を戒厳令下で終えた李臨秋自身も生前、第3節が歌われることを快くは思っていなかったと伝えられています。


 なお、この詩は台彎語で書かれており、近体詩のような平仄押韻には適合していませんが、台彎語で読むと各句の末の漢字が全て「-ang」の1韻に到底されています。
 韻を揃えるということは、使える漢字の数が限られることを意味し、作詩には非凡な才能と文字選定の気の遠くなるような作業とが必要になります。
 李臨秋の博識と卓越したテクニックが窺える佳作になっています。


 また、「漁網」と「希望」とは、台彎語の発音ではどちらも「 hi- bang」であり同音異義語です。
 つまり、「破れた網を捨て去ることなく 修補する」ということは、取りも直さず「消えかけた希望の炎を消し去ることなく燃やし続けよう」という未来志向を意味するのであります。


 以下、この詩の原文と伊賀流の和訳を掲載し、動画はいつもの通り「東方女孩(東洋のお嬢さん)」こと蔡幸娟小姐の歌唱を添付します。
 単調な繰り返しと思われがちな、各句末の韻「-ang」が、心地よい韻律を醸し出していることをご清聴ください。


  補破網(破れた網を繕う)
   李臨秋 作詞 王雪峰 作曲(1948年發表)(1977年以前禁唱)
1節
見著網目眶紅, (漁の網を見ると 目の縁が赤くなる)
破甲這大孔。  (こんなに大きな穴が開いている)
想要補無半項, (繕いたいが 道具が一つもない)
誰人知阮苦痛。 (誰に私の苦しみが分かるだろうか)
今日若將這來放,(もしこれを放って置いたら )
是永遠無希望。 (永遠に希望は無くなってしまうだろう)
為著前途鑽活縫,(前途のためには 針を通して縫おう)
找傢私補破網。 (道具を探して破れ網を繕おう)


2節
手提網頭就重, (網を手に取れば 頭は重い)
悽慘阮一人。  (惨めな一人ぼっちの私)
意中人走叨藏, (意中の人は どこへ行ってしまったのか)
那無來鬥幫忙。 (手伝いに来て欲しい)
姑不利將罔振動,(仕方ないから とにかく少しでも)
拿網針接西東。 (網針を持ってあちこちつなごう)
天河用線做橋板,(織姫が天の川に糸で橋板を掛けるように)
全精神補破網。 (精一杯 破れ網を繕おう)


3節(蛇足部分)
魚入網好年冬, (魚は網に入り好い年の瀬に)
歌詩滿漁港。  (歌声は港に満ち溢れている)
阻風雨駛孤帆, (風雨の中を船を走らせて)
阮勞力無了工。 (努力した甲斐があった)
雨過天晴魚滿港,(雨が通り過ぎて空は晴れ魚は港に満ちて)
最快樂咱雙人。 (この上ない喜びに浸る二人)
今日團圓心花香,(今日の団欒に心の花は香り)
從今免補破網。 (これからはもう網を繕わなくて済む)


注:

 この歌詞は下の動画の字幕から拾い上げたものですが、1節最後の行3字目は動画では「亻」に「私」と書かれています。

  手元の漢和辞典には、そのような文字が見当たらないので、「私」で代用してみました。

  正しい漢字の読みと意味については、博雅の教えを請います。

 

蔡幸娟 - 補破網



 おまけ♪♪
この歌詞には、詩語が少しづつ異なったいくつものバージョンが有ります。
蔡幸娟小姐の新しい方のバージョンも添付します。



蔡幸娟_補破網(200709)