伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

月夜愁


 台湾の四大民謡と言われる「四月望雨」とは、38歳で夭逝した鄧雨賢の作曲になる『四季紅』、『月夜愁』、『望春風』及び『雨夜花』の4曲のことを言います。
 当ブログでは、これまでその内3曲をご紹介してきました。
 今回は、最後に『月夜愁』をご紹介します。


 この曲は、元々台湾原住民平埔族の歌謡が原典となっています。
 その歌謡を、20世紀初頭にカナダから台湾へ移住し「馬偕博士」と呼ばれて尊敬を集めたキリスト教の宣教師であり医者や教育者でもあったジョージ・L・マッケイが、讃美歌の曲として採用していました。


 1933年、27歳の鄧雨賢がこの曲からヒントを得て新たに作曲し編曲も施して、作詩を当時まだ24歳の周添旺に依頼して「月夜愁」は完成しました。 
 この年、鄧雨賢は、当時23歳の李臨秋が作詩した「望春風」にも曲を付けて発表しています。
 また翌1934年、鄧雨賢と周添旺のコンビは「雨夜花」を発表しています。


 乙女心を詠ませたらこの人の右に出る者はいないと謳われた周添旺は、この当時、何か心に感ずるものがあり、思いを寄せる男を待ち続ける失恋した乙女の心情を、哀愁漂うメロディーに乗せて「月夜愁」を作詩し、当時の若者の絶大な支持を受けました。
 この歌は、周添旺を台彎歌謡界の頂点に立たせた傑作として、現在でも高く評価されています。


 なお、詩の中に出てくる「三叉路(=三線路)」とは、1910年頃、台湾を統治していた日本の台彎総督府が台北城の城壁跡地に敷設した道路のことで、中央の車道とその両側に歩道をもち、それらを街路樹で仕切る形態をとったことから、「三線道路」と呼ばれていたものです。
 この道路は、当時の台彎総督府民政長官後藤新平が、末永く台湾人の憩いの場となるようにするため、「パリのシャンゼリーゼ通りのように」作れと指示して作られました。
 そのため、道路の幅は狭いところでも25間(45.5メートル)、広いところでは45間(81.8メートル)もある広々としたもので、総延長4キロメートルにも及ぶ世界的にも珍しい「公園道路」になっています。
 そして車や人の往来の少なかった当時、漸く自由恋愛の気風が芽生えつつあった台湾の若者たちの格好のデイトコースとなっていました。


【1930年代、台湾の若者たちが月夜に散歩しながら愛を語った台北の三線道路】


 台北城跡を取り囲むように四角形に作られたこの道路は、現在の中山南路(東線)、中華路(西線)、愛国西路(南線)及び忠孝西路(北線)の各道路にあたり、それぞれ直線で約1Km、総延長は4Kmに及ぶ長大なものです。今でも公園としての機能が有るかどうかについては、寡聞にして存じません。


  月夜愁 (月夜の悲しみ)  
                 1933年 詞(台湾語)周添旺  曲 鄧雨賢  
一節
月色照在三叉路 風吹微微 (月明かりが公園道路を照らし 風がそよそよと吹き渡る)
等待的人 那不來     (待ち望んでいる人は どうして来ないのかしら)
心内真可疑 想不出彼個人 (心の中で疑ってしまうわ 彼のことが分からない)
啊  怨嘆 月暝          (ああ 悲しい月の夜)


二節
更深無伴獨相思 秋蝉哀啼 (片思いする一人の夜は更けて 秋の蝉が哀しく鳴くわ)
月光所照的 樹影     (月の光が照らす木の陰に)
加添我傷悲 心頭酸眼涙滴    (私の悲しみは増すばかり 心は痛み涙が落ちる)
啊  無聊月暝      (ああ つまらない月の夜)


三節
甘是註定 無縁份 所愛的伊 (心から願っても縁がないのは運命なのか 愛する貴方)
因何乎阮 放未離      (だけど私は貴方から離れることなどできはしないわ)
夢中來相見  断腸詩唱未止 (夢の中だけでも会いたい 悲痛な歌は歌い尽くせないわ)
啊  憂愁月暝         (ああ 気が滅入る月の夜)


筆者註:

 伊賀山人には、現代支那諸語に関する知識はありません。

 和訳については、千年前の漢文知識で読み解いているに過ぎません。

 万一、誤訳が有れば、博雅の教えを請います。


 歌唱はいつものとおり蔡幸娟小姐、台湾の経典(古典)音楽会に於いて、月に照らされた秋の夜更けに三線道路で思いを寄せる男を待つ乙女の憂愁を台灣閩南語(たいわんびんなんご)即ち台彎語で切々と歌い上げています。



月夜愁 蔡幸娟 2003