伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

襟裳岬(島倉千代子編)

【襟裳岬歌碑(右が島倉千代子、左は森進一の歌碑)】
 襟裳岬の展望台の横には2つの歌碑があります。


 右側は、「島倉千代子」の「襟裳岬」の歌碑で、この岬が有る「幌泉(ほろいずみ)町」が改称して「えりも町」となった記念として1971年(昭和46年)に建立されました。
 左側は、「森進一」の「襟裳岬」の歌碑で、展望台を兼ねた風のテーマ館「風の館」が建設され、森進一が来町した際に記念として1997年(平成9年)に建立されました。
  同じ場所に同名異曲の2つの歌碑が並んで建立されているという他所では見られない珍しい光景です。


 現在、「襟裳岬」というと、1974年(昭和49年)1月に発表された森進一の歌曲を思い浮かべる人が殆どで、島倉千代子の歌を知る人も少なくなりつつあります。


 そこで、今回は、ワンダムさんのご要望に応じて島倉版をご紹介します。


 島倉版の「襟裳岬」は、1961年(昭和36年)5月、島倉千代子23歳の時に発表された楽曲です。
 この曲は、瞬く間に大ヒットとなり、当時としては異例の100万枚を超えるレコード売上げを記録して、全国的には全く無名であった襟裳岬の名を広く世間に知らしめました。


 その当時は、池田内閣の所得倍増計画の掛け声の下、高度経済成長が端緒についた時期でした。しかし、国民の大多数は未だに貧乏であり、自家用車を持つ者などほんの一握りの富豪に限られていたため、一般の庶民には気軽に旅行に出かけるような経済的・時間的余裕などないのが実情でした。
 従って、全国で観光地として整備されているものは、数少ない限られた所にしかありませんでした。
 襟裳岬には燈台が有るだけで、他に見るべきものもなく、訪れる観光客もいませんでした。
 島倉がこの襟裳岬の名を全国に知らしめたことから、この地も逐次観光地として整備されるようになりました。


 島倉版の「襟裳岬」は、NHK紅白歌合戦で2回披露されています。
 1回目は、この曲を発表した1961年の『第12回NHK紅白歌合戦』、2回目は、1974年の『第25回NHK紅白歌合戦』で、いずれも紅組トリでの歌唱でした。
 2回目は、当初、島倉は紅白で未歌唱であった1955年(昭和30年)のデビュー曲「この世の花」を歌唱する予定でしたが、白組のトリとなった森進一がこの年発表した同名異曲の「襟裳岬」を歌うことが決定したため、森に対抗するためこの曲に変更したものです。


 島倉版の「襟裳岬」、作詩は丘 灯至夫(おか としお)、作曲は遠藤 実(えんどう みのる)、去って行った男を思う襟裳の女の未練を詠う、所謂演歌です。



   襟裳岬 
         作詞:丘 灯至夫 作曲:遠藤 実          


1 風はひゅるひゅる
  波はざんぶりこ
  誰か私を 呼んでるような
  襟裳岬の 風と波
  憎い憎いと 怨んだけれど
  今じゃ恋しい あの人が


2 風はひゅるひゅる
  波はざんぶりこ
  浜の日暮れは 淋しいものよ
  たった一人は なおさらに
  こんぶとる手に ほろりと涙
  背のびしてみる 遠い空


3 風はひゅるひゅる
  波はざんぶりこ
  春はいつくる 燈台守と
*1
  襟裳岬の 女の子
*1
  泣いてみたいな 霧笛のように
*2
  泣けば想いも 晴れるのに


*1 「燈台守」も「女の子」も風景描写の一部であり、恋愛の当事者ではありません。
     なお、この当時、「女の子」とは、小学生以下の女児を指します。
*2 此処で言う「霧笛」とは、船舶のものではなく、燈台に設置されているものを
  指します。
   襟裳岬の沖合で暖流と寒流とがぶつかることから、濃霧が発生しやすく、襟裳岬の
  燈台には霧笛が附設されています。 


 

襟裳岬 島倉千代子



 凡そ2000曲の楽曲を発表し、数多くのヒット曲を生んだ島倉千代子ですが、2013年(平成25年)11月8日、肝臓癌のため満75歳(享年76)でこの世を去りました。 合掌