伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

服部土芳の句碑(観月懐古完)

 伊賀国名張郡国見(現在の伊賀市種生)にある兼好法師終焉の地に服部土芳(はっとりとほう)の句碑が一つ残されています。


 服部土芳、本名は保英、通称は服部半左衛門と名乗る伊賀上野藤堂藩の武士でした。幼少の頃、同郷の俳聖松尾芭蕉に俳句を学び、長じて芭蕉の高弟の一人にも数えられた江戸時代初期の俳人です。
 この句を詠んだころには俳句に専念するため、既に藤堂藩を致仕(退職)して土芳と号しておりました。


 兼好法師没後350年となる元禄11年 (1698)、仲秋の一夕、土芳は名月を望み兼好法師を偲んで風雅な句を詠まんと欲し、この兼好法師終焉の地を訪れました。


 ところが、寺の跡地は畑となり、その周りは萩やススキの生い茂る見渡す限りの荒れ野原でありました。そこへ折しも満月が萩やススキに寄り添うように東の空から上ってきます。月の光は逆光となり荒れ野の草木は土芳の眼には黒い影絵のように映ったことでしょう。
 そのシルエットは、あたかも100年前の天正伊賀の乱で命を落とした伊賀者の亡霊のように見えたのかもしれません。


 忍者ハットリ君同様、自らも伊賀上忍の家系であった俳人土芳の心に去来するものは一体何だったのでありましょう。あるいは、非業の死を遂げた祖先や縁戚その他数多の伊賀者の悲痛な霊魂の叫びを感じ取っていたのかもしれません。


 土芳は、俳句には珍しく、「悲しさ凍る」という強く直接的な表現で、この碑に刻まれた次の一句のみを残して仲秋の名月が冷たく照らすこの地を去ったのであります。
 後に土芳は、自身の日記『蓑虫庵集』に「草蒿寺の跡とは畑なり」と書き残しています。


 《月添ひて かなしさこほる 萩すすき》   合掌