伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

迢迢牽牛星(迢迢たる牽牛星)


 本日は、旧暦7月7日で日本の国立天文台が定める「伝統的七夕の日」です。


 七夕(たなばた)の日における織女と牽牛の伝説が、いつ始まったかについてはよく分かっていませんが、『詩経』(BC12世紀~BC6世紀の支那の詩集)小雅の大東篇の中に星の名前としては織女と牽牛に関する記述が見えることから、遅くとも2600年以上前には星や星座の名付けの由来としての伝説の萌芽があったものと考えられます。


 今回ご紹介する「迢迢牽牛星」(迢迢たる牽牛星)は、南朝梁の昭明太子によって編纂された詩文集『文選(もんぜん)』の中に収録されている漢の時代(今から約2000年前)に詠まれた「古詩十九首」の中の一首ですが、七夕伝説がある程度まとまった形で記述されて現存している文献としては初出と言えるものです。


 「古詩十九首」とは、全部で十九首ある五言詩の総称で、各詩は詩題も作者も不明ですので、詩題は便宜上各詩の初句をもってし、作者は「無名氏(むめいし)」又は「佚名氏(いつめいし)」と表記されています。


 七夕伝説について書かれているのは、「古詩十九首」の「其の十」で、初句をもって「迢迢牽牛星(ちょうちょうたるけんぎゅうせい)」と呼ばれている詩です。


 この詩の中では、牽牛と織女とが天の川を挟んで見つめ合う姿が詠じられていますが、七夕の夜に再会することまでは言及されていません。
 2000年以上前から、年に一度の逢瀬の伝説があったかどうかについては不明です。


 七夕伝説は、長い年月の間に他の神話や民話その他の習俗と融合して、国や地域ごとに独自の変化を遂げています。
 記事冒頭の画像に見える群れ飛ぶ鳥はカササギ(鵲)で、古来支那ではこの鳥が身を挺して織女・牽牛の為に天の川に架かる橋を為すとされていることから、漢詩では七夕を詠ずるときに「鵲」(かささぎ)「烏鵲」(うじゃく)「烏鵲橋」(うじゃくきょう)などの詩語が多用されています。


 七夕伝説の原典とも言える「迢迢牽牛星(ちょうちょうたるけんぎゅうせい)」を、伝統的七夕の日に因み、全文を掲載して読者各位のご参考に呈します。



【白文】
古詩十九首其十 (迢迢牽牛星)


迢迢牽牛星,皎皎河漢女。
纖纖擢素手,札札弄機杼。
終日不成章,泣涕零如雨;
河漢清且淺,相去復幾許!
盈盈一水間,脈脈不得語。



【訓読文】
古詩十九首其の十(迢迢たる牽牛星)


迢迢(てうてう)たる牽牛星(けんぎうせい)、
皎皎(かうかう)たる河漢(かかん)の女(ぢょ)。
纖纖(せんせん)として素手(そしゅ)を擢(あ)げ、
札札(さつさつ)として機抒(きぢょ)を弄(ろう)す。
終日(しゅうじつ)章(しゃう)を成さず、
泣涕(きふてい)零(お)つること雨の如し;
河漢(かかん)は清く且(か)つ浅し、
相去(あいさ)ること復(ま)た幾許(いくばく)ぞ!
盈盈(えいえい)たる一水(いっすい)の間、
脈脈(みゃくみゃく)として語るを得ず。



【口語訳】
古詩十九首其の十(遥か遠くの空に輝く牽牛星)


遥か遠くの空に輝く牽牛星、
白く清らかな光を放つ天の川の織女星。
しなやかでほっそりした手を抜き出して、
サッサッと機織りの横糸を通している。
しかし、一日中織っていても綾模様は出来上がらず、
牽牛との別れを悲しんで涙は雨のように落ちている。
天の川は清く澄んでいるうえに浅く、
牽牛とそれほど遠く離れているわけでもない!
それなのに、まるで水の満ち溢れる大河に隔てられたように、
じっと見つめ合うだけで、言葉を交わすこともできないとは。