伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

精神疾患への運動療法の適用に関する一考察

  【目 次】


1 序論

2 本論

(1)運動療法の研究と医療への適用の現状

(2)運動療法の作用機序

(3)運動療法の2次的効果

(4)運動療法の最適な実施要領

3 結論


(結言)


1 序論
  運動療法が精神疾患の症状を緩和するのに効果があることは、 古代ギリシアの医師で
 「医学の父」と呼ばれているヒポクラテス(前460頃~前370頃)の時代から認識されて
 いた。
  近年、欧米に於いては運動療法の精神疾患に及ぼす影響に関する研究が進み、運動療
 法が治療の重要な分野として位置付けられるようになってきたが、我が国に於いては、
 未だ緒に就いた段階である。
  本考察に於いては、運動療法の作用機序を明らかにして最も効果的な実施要領につい
 ての一案を得ることを目的とする。


2 本論
(1)運動療法の研究と医療への適用の現状
   ヒポクラテスが運動療法を提唱してから2400年、研究は遅々として進んでいない。
   この原因は、精神疾患の病状を具体的・計数的に評価するバイオマーカー(生物学
  的指標)が、殆ど存在しないことにある。
   例えば、内科疾患であれば血液検査や放射線検査などで、病名や病状を客観的に評
  価することができるので、薬物や運動などあらゆる療法の効果を測定することも可能
  である。
   これに対し、精神疾患の場合には光トポグラフィー検査以外には有効なバイオマー
  カーが存在しないので、治療効果の評価尺度は患者の「気分の良し悪し」といった定
  性的かつ主観的なものに頼らざるを得ない。
   このため、医療者側が治療効果を定量的に把握できず、しかも薬物のように商業
  ベースに乗らないことが運動療法の研究が進まない原因となっている。


   近年、イギリスでは国立医療技術評価機構から精神疾患についての診療ガイドライ
  ンが複数発表されており、その中で運動療法は、うつ病、認知症、不安障害・パニッ
  ク障害等においては薬物療法に先立つ初期の治療或いは薬物と併用すべき治療として
  位置付けられている。
   また、注意欠陥・多動性障害(ADHD)、双極性障害、統合失調症では、薬物療
  法の補助として運動療法が推奨されている。


   運動療法を精神疾患の治療に応用することができるかどうかについての研究報告は
  1970年代からあるが、非常に大掛かりな研究は1999年のアメリカの研究である。
   アメリカのブルメンタールという研究者は、一定の条件を満たすうつ病患者合計
  156名を選びこれを約50名ずつの3群に分けた。
   そして、それぞれの群を、抗うつ剤(Sertraline)だけで治療する群、薬は飲まずに
  運動療法だけで治療する群、薬と運動の両方を行う群に分けた。
   運動は、中程度からややきつい有酸素運動を週に3回30分間、16週間にわたって指
  導者のもとで行わせるというものであった。
   この結果、16週間の後にはどの群も同じようにうつ状態が軽快しており、運動が薬
  物と同等の効果があることが証明されたが、特に運動をした群は体力が著しく向上し
  て気分障害の改善も見られた。


   このブルメンタールの研究が示すように、運動が抑うつ状態に対して治療的に働
  く、つまり症状を改善させるという報告は次第に増えているが、本当に運動だけでも
  うつ病が良くなるかどうかについては、未だ研究途上である。
   なお、これまで運動によってうつ病が悪化したという研究報告は殆どない。


   翻って、我が国に於いては、長年、運動療法についてはほとんど無視されてきた
  が、欧米での研究結果を踏まえ、 2013年日本うつ病学会が大うつ病性障害の治療ガ
  イドラインの中に、軽症うつ病患者に対する運動療法を初めて記載した。
   ただし、このガイドラインの中では、「運動療法の効果については明確なエビデン
  ス(証拠)はない」と記載されており、積極的には推奨されていない。


   現在、運動療法が積極的に採用されているのは、医療機関ではなく介護機関であ
  る。
   介護の現場では、運動が要介護者の抑うつ状態に限らず殆どの気分障害を改善する
  ことは経験的に早くから知られていた。
   しかしながら、介護機関は多忙を極めるためか、その効果を統計的に評価した研究
  成果は見当たらない。


(2)運動療法の作用機序
   運動がうつ病などの気分障害を改善する作用機序については、研究数が少ないこと
  もあり、未だよく分かってはいない。
   そもそも、精神障害の原因についてもよく分かっていないのが現状であるが、脳内
  の神経伝達物質の異常な増加又は減少、或いは伝達経路の混乱が直接的な原因である
  ことは、ほぼ確かである。
   そのことから、運動療法はこの神経伝達物質と伝達経路の正常化に寄与しているも
  のと考えられている。


   遺伝学的見地からは、運動が気分を良くすることは、太古の昔から人のDNAに摺り
  込まれているものと想像される。
   つまり、人も動物の一種であり、生きるための食料を得る手段である狩猟や採取な
  どの運動は本能的に気持ちの良いものと認識する、或いはそのように認識する者が現
  代まで生き残ることができたとする説である。
   この説は、現代人でも運動後爽快感を感じたり、魚釣りや山菜取りを心地よく感ず
  る者が多いことや、野生ではないペットの犬などが例外なく散歩を好むことからも類
  推できる。


   一方、脳科学的な見地からは、運動の効果は脳の活性化にあるとして説明される。
   運動を行うと脳内の神経伝達物質として働く「ドーパミン」「アセチルコリン」
  「セロトニン」などの脳内物質の分泌が促進されて、脳が活性化されることが証明さ
  れている。
   これらの物質は神経細胞同士の情報のやりとりの為に働いている。
   従って、神経伝達物質の増加は、殆どの場合、神経伝達を正確・確実にすることに
  寄与して、気分障害を緩和するものと思われる。
   ただし、神経伝達物質の過剰も神経症状の原因の一つであるとする立場からは、さ
  らに症状は悪化するのではないかとの懸念があるかもしれない。
   しかし、運動により生ずる脳内物質は少なくとも数種類以上ある。
   これらの物質には、興奮や鎮静といった相反する反応の情報伝達を共同して行う機
  能もあれば抑制的に行う機能もある。
   運動が原因で抑うつ状態を発症したという症例が無いことを考えると、運動により
  増加する複数の脳内物質は自ずからバランスが取れていると考えるべきであり、症状
  が現状よりも悪化するリスクは少ないと言える。
   
   また、運動の脳へ与える影響の一つに、脳細胞の増加がある。
   運動、特に有酸素運動のような軽い運動を行うと、体内の血流が増えて、脳内にも
  新鮮な酸素を含んだ血液が満たされて、脳細胞が増えるニューロン新生という現象が
  起こる。
   脳細胞が増えると、神経伝達の経路が増えて、情報が迅速・正確に伝達されるよう
  になる。
   このことも、気分障害を緩和する一助となっているものと考えられる。
   なお、米国ピッツバーグ大学等の研究によると、運動による刺激で脳細胞が増えて
  活性化される主な領域は「海馬」と「前頭葉」であるとされている。
   この領域は、主として記憶を司る領域であり、記憶力を向上させるには運動するこ
  とが効果がある。
   著名なノーベル賞学者が、研究時間を割いてまでも毎日ランニングに取り組む理由
  の一つはここに在る。


(3)運動療法の2次的効果
   概して、精神障害者は医療機関や自宅などに閉じこもって体力低下を招きやすい。
   そのことが、進学や就職の障壁となる場合があるが、継続的に運動を続けて体力を
  維持向上することにより、社会復帰を容易にすることができる。


   また、野外で行う運動療法であれば、無意識のうちに光療法(ひかりりょうほう)
  を兼ねることが出来る。
   光療法とは、一部の睡眠障害やうつ病に有効とされる治療法の一種であり、生体リ
  ズムを整える効果があるとされているが、端的に言うと単なる日光浴のことである。


   日光浴で太陽光を浴びると、脳が覚醒し交感神経系が刺激され、そのことによって
  セロトニン神経の働きが活性化してセロトニンを増やす効果がある。
   セロトニンは、主に生体リズム・神経内分泌・睡眠・体温調節などに関与してい
  る。
   セロトニンが増えることにより、体内時計を整えることが出来て、心の安定を得る
  ことが出来る。


   更に、セロトニンには、、睡眠ホルモン『メラトニン』の分泌に予約スイッチを入
  れる機能が有る。
   メラトニンの分泌は、朝日を浴びてセロトニンが分泌され始めてから、その後およ
  そ14~16時間後に最高潮になり、その時間になると自然に眠気を催すことになる。
   例えば、朝の8時に太陽光を浴びると、夜の10時から12時ころの寝つきが良くな
  る。


   日照時間が短くなる秋から冬にかけて季節性うつ症が発生しやすいのは、脳内のセ
  ロトニンが減少することが最大の原因である。 


(4)運動療法の最適な実施要領
   運動の強度、頻度、時間などの最適値については、研究者ごとに異なるが、平均的
  には、ジョギング程度の有酸素運動を、週3回、1回30分とする研究成果が多い。


   確かに、治療の一環である以上、過激な鍛錬は必要ない。
   しかしながら、体内リズムを整え、治療効果を最大化する観点から体育理論を踏ま
  えて検討した結果、最適案として次の一案を得た。


  ァ 運動の質
    ジョギング或いはランニング程度の有酸素運動。
    ただし、その日の体調が良好であれば、一部中強度の無酸素運動を含む。
    逆に気分の優れぬ日は、体操やウォーキング程度に抑える。


  イ 運動の頻度及び時期
    毎日毎朝1回。(週3回或いは隔日では体内時計を整えにくい。)
    ただし、疲れが残っていると感じた日は、1日休む。
    (筋肉破壊と超回復の理論による。)


  ウ 1回あたりの時間
    30分を基準とし、その日の体調により、10分から1時間の間で増減する。
  
  ェ 特に留意すべき事項
    未だ研究途上の現段階では、薬物療法や精神療法を主として、運動療法は薬物療
   法などの補助療法として位置付けておくのが望ましい。
    心疾患や高血圧、関節痛などの所見がある場合には医師に相談する。
    疲労が蓄積しないように運動量を調節する。


3 結論
  運動療法には、うつ病を始めとして各種精神疾患を改善する効果がある。
  運動療法は、患者の体力に応じた有酸素運動を毎朝30分以上行うのが望ましい。
  運動療法の前中後で疲労を感じた時には、迷わず休む。


(結言)
 日本の精神科医療において、どのような運動をいかに活用すべきかという課題への取り組みは始まったばかりであり、 今後日本人対象の質の高い研究の実施とその科学的な根拠にもとづく診療ガイドラインの発信が望まれる。