伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

般若心経


 「般若心経(はんにゃしんぎょう)」は、大乗仏教の経典の一つで、「般若波羅蜜多心經(はんにゃはらみったしんぎょう)」の略称です。更に略して単に「心経(しんぎょう)」と呼ばれることもあります。
 逆にこの経典名の頭部に「摩訶(まか:偉大な)」という接頭辞をつけて「摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみったしんぎょう)」と表記されたり、更に「仏説(仏(釈迦)の説いた教え)」を追加して「仏説摩訶般若波羅蜜多心経(ぶっせつまかはんにゃはらみったしんぎょう)」と表記されることもありますが、全て同一の経典です。
 「般若」(はんにゃ)とは、「智慧」や「悟り」を意味しています。
 「波羅蜜多」(はらみった)とは、「迷いの世界から悟りの世界へ至ること」、および、そのために「菩薩が行う修行」のことで、到彼岸(とうひがん)、度(ど)、波羅蜜(はらみつ)などとも訳されています。
 「心経」(しんぎょう)とは、「心髄についての経典」という意味です。


 この般若心経は、僅か300字足らずの本文に大乗仏教の心髄が説かれているとされていることから仏教の多くの宗派で重要経典に位置付けられています。
 この経典には、観音菩薩が釈迦の十大弟子のひとりである舎利子(しゃりし、シャーリプトラ)に「般若波羅蜜多」の呪文を説く場面が書かれています。
 なお、観音菩薩は釈迦の弟子ではなく、阿弥陀如来の長男で既に悟りを得て仏陀になって、過去には「正法明如來」と号しておりましたが、衆生の近くでの救済活動に勤しむため自ら格下の菩薩に戻ったものであり、釈迦も一目置いていたことから釈迦の弟子の教育にも部外講師としてしばしば教壇に立っております。


 今回は、この経典の原文と訓読文及び口語訳と愛媛県今治市にある臨済宗・海禅寺の副住職薬師寺寛邦(やくしじ かんほう)禅師の読経を動画でご紹介します。
 なお、この経典の最後の1句「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶 (ギャー テー ギャー テー ハ ラ ギャー テー ハ ラ ソー ギャー テー  ボ ジ ソ ワ カ )」は、梵語(サンスクリット語)を漢字で音写して書かれているので訓読不可能です。そのため、現在までその正確な意味は解っていませんが、梵語は真言とされておりその響きこそが重要であり、特に意味を知る必要はないとされているため、余り熱心に研究もされていないようです。


 薬師寺寛邦禅師(1979年(昭和54年)3月17日ー)は、僧侶でもあり音楽家でもある人で、経典を現代の人々に馴染みやすいようにポップスのメロディーに乗せて読経したり、口語訳で歌ったりして布教に努めている珍しい仏僧です。


 記事冒頭の画像は、彼が2018年5月11日に発表した「般若心経」と題するCDのジャケットですが、このCDは全11曲の全てが「般若心経」の別々のバージョンとなっています。画像右上の「キッサコ」とは彼の僧侶バンドのグループ名で、仏教用語の「喫茶去」(「お茶でものみながらごゆっくりと」の意味)に由来しています。


 薬師寺寛邦禅師のオリジナルバージョンである「般若心経 cho ver.」は、日本のYouTubeで200万回再生を突破し、 台湾の東森新聞では160万回、中共のSNSでは驚異の2,000万回再生を記録しています。



(原文)

摩訶般若波羅蜜多心經


観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。


舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。


舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。

是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。

無智亦無得。以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罜礙。無罜礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。

三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。

故知。般若波羅蜜多。是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。真実不虚。故説般若波羅蜜多呪。

即説呪曰。


羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。


般若心經


(訓読文)

摩訶般若波羅蜜多心経


觀自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。


舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色はすなわちこれ空、空はこれすなわち色なり。受想行識もまたまたかくのごとし。


舎利子、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減ぜず。この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明もなく、また、無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に、菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に心に罜礙なし。罜礙なきが故に、恐怖あることなく、一切の顚倒夢想を遠離し涅槃を究竟す。三世諸佛も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神咒なり。これ大明咒なり。これ無上咒なり。これ無等等咒なり。よく一切の苦を除く。真実にして虚ならず。故に般若波羅蜜多の咒を説かん。

すなわち咒を説いて曰わく。


羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶

(ギャー テー ギャー テー ハ ラ ギャー テー ハ ラ ソー ギャー テー  ボ ジ ソ ワ カ )


般若心經


(現代口語文)

偉大な摩訶般若波羅蜜多心経を唱える。


観音菩薩が、深遠なる「智慧の波羅蜜」を行じていた時、煩悩のもととなる五蘊【ごうん:人間を成り立たせている五つの要素。色(しき)(=物質)・受(=感受作用)・想(=概念作用)・行(ぎょう)(=心の働き)・識(=認識作用)】はすべて「空(くう:実体のないこと、)」であると、その本質を見極めて一切の苦しみと災いから解脱された。


『シャーリプトラよ、

色(物質)は空(実体のない無)と異ならず、空は色と異ならない。色はすなわち空であり、空はすばわち色である。受(感覚を感じる働き)、想(概念)、行(意志)、識(認識する働き)それぞれの蘊もまた色と同様に空と同じである。』


『シャーリプトラよ、

すべての現象(諸法)は実体のない空であるから、

生じることなく、滅することなく 、汚れることなく、汚れがなくなることなく、増えることなく、減ることもない。

このゆえに空の中には、

色も無く、受も想も行も識も無い

眼、耳、鼻、舌、身、意も無く、

色、声、香、味、触、法も無い 。

眼で見られる世界(眼界)も無く、または意識で想われた世界(意識界)も無い 。

無明も無く、また無明の尽きることも無い 。

または老も無く死も無く、また老いと死とが尽きることも無い 。

「これが苦しみである」という真理(苦諦)も無いく、

「これが苦しみの集起である」という真理(集諦)も無いく、

「これが苦しみの滅である」という真理(滅諦)も無いく、

「これが苦しみの滅へ向かう道である」という真理(道諦)も無く、

知ることも無く、また得ることも無い。

もともと得られるべきものは何も無いのであるから、

菩薩たちは「智慧の波羅蜜」に依拠しているがゆえに 心にこだわりが無い 。

こだわりが無いゆえに、恐怖も無く、

転倒した認識によって世界を見ることから遠く離れている。

過去、現在、未来(三世)の仏たちも「智慧の波羅蜜」に依拠するがゆえに 、完全なる悟りを得るのだ。

それゆえ、この「智慧の波羅蜜」こそは 偉大なる呪文である。

偉大なる明智の呪文である。

超えるものなき呪文である。

並ぶものなき呪文である。

すべての苦しみを除くことができる。

それは真実であり偽りなきものである。

だから「智慧の波羅蜜」という呪文を説こう。』


そしてこの呪文に説いて次のように言われた。


『 ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に正しく往ける者よ、 菩提よ、ささげ物を受け取り給え)』


以上が般若心経である。



【MV】般若心経 cho ver. [short mix] / 薬師寺寛邦 キッサコ @京都・天龍寺



  過香積寺                                              

                       盛唐・王維

 不知香積寺, 數里入雲峰。

 古木無人逕, 深山何處鐘。

 泉聲咽危石, 日色冷青松。

 薄暮空潭曲, 安禪制毒龍。



香積寺(かうしゃくじ)を過(と)ふ


知らず香積寺(かうしゃくじ),

数里(すうり) 雲峰(うんぽう)に入る。

古木(こぼく) 人径(じんけい)無く,

深山(しんざん) 何処(いずこ)の鐘(かね)ぞ。

泉声(せんせい) 危石(きせき)に咽(むせ)び,

日色(にっしょく) 青松(せいしょう)に冷ややかなり。

薄暮(はくぼ) 空潭(くうたん)の曲(ほとり),

安禅(あんぜん) 毒龍(どくりょう)を制す。



香積寺(かうしゃくじ)を訪れる


香積寺への道を知らずに,

数里 雲のたなびく嶺に分け入った。

古木が生い茂って 人の通る小道さえない,

深い山に どこから響く鐘だろうか。

泉の水音は 鋭くとがった石に咽び,

日の光は 松の緑を冷たく照らしている。

夕暮れ時の 人気のない池のほとりに,

静かに坐禅する僧が 己の心中の毒竜を押し伏せているのを見た。