伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

岸壁の母(在岸壁之母)


 「岸壁の母(がんぺきのはは)」は、昭和29年(1954年)9月に日本の歌手菊池章子(きくち あきこ、1924年1月28日 - 2002年4月7日)の演唱で発表された楽曲です。
 この楽曲は当時レコード売上100万枚を超える大ヒットとなりましたが、その後、二葉百合子(ふたば ゆりこ、1931年6月23日 - )が浪曲調にアレンジして台詞も加えたカバー版が昭和46年(1971年)に発表されてその翌年にはシングルカットされました。
 二葉百合子版の方は250万枚を超える空前の大ヒットとなり、現在はこちらの方が一般によく知られています。


 作詞は藤田まさと、作曲は平川浪竜(ひらかわ・なみりゅう)が担当しています。
 歌詞は、終戦直後シベリアに抑留された息子端野新二の帰りを待つ端野いせ(1899.9.15 – 1981.7.1)の実話を元に作られています。
 石川県出身の端野いせは、船員の夫に随って北海道の函館に昭和5年まで住んでいましたが、夫と娘を相次いで失くしたことから、新二を養子に迎えて昭和6年に上京して終戦後も東京都大森に住んでいました。
 しかしながら、ソ連からの引き揚げ船が来る港は京都府北部の日本海側にある舞鶴港であったため、新二の生存と復員を信じる端野いせは昭和25年(1950年)1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に、その復員名簿に新二の名が無いにもかかわらず東京から遠路足を運んで舞鶴港の岸壁に立っていました。


 作詞した藤田まさとは、この端野いせが引き揚げ船の来る都度舞鶴の岸壁に立つ事情を聞いて、母親の子を思う愛への感動と戦争へのいいようのない憤りを感じてすぐにペンを取り、高まる激情を抑えつつ詞を書き上げたといわれています。
 その歌詞を読んだ平川浪竜は、これが単なるお涙頂戴式の母ものでないと確信し、徹夜で作曲して翌日テイチクレコードに持参しました。
 さっそく平川は視聴室でピアノを演奏し、テイチクレコード会社の重役と文芸部長、作詞した藤田まさとの3人に聴いてもらいました。
 ところが歌い終わっても3人から何も反応がありませんでした。実はその時3人は感動に涙していたのであります。


 歌手にはテイチクレコード専属の菊池章子が選ばれて早速レコーディングが始まりましたが、演奏が始まると菊池は泣き出してしまいました。
 その後放送や舞台で披露する際も、菊池は常に涙なくして歌うことはありませんでした。
 菊池曰く「事前に発表される復員名簿に名前がなくても、『もしやもしやにひかされて』という歌詞通り、生死不明のわが子を生きて帰ってくると信じて、東京から遠く舞鶴まで通い続けた母の悲劇を想ったら涙がこぼれますよ」と語っています。


 昭和29年9月発売と同時に、この楽曲は日本中を感動の渦に巻き込みました。
 菊池はレコードが発売されたとき、「婦人倶楽部」の記者に端野いせの住所を探し出してもらい、「私のレコードを差し上げたい」と手紙を送りました。しかし、端野の返事は「もらっても、家にはそれをかける蓄音機がないので、息子の新二が帰ってきたら買うからそれまで預かって欲しい」というものでありました。
 それを聞いた菊池はみずから小型蓄音機を購入して端野に寄贈しました。


 子を思う母心を詠じた古今の絶唱、 菊池章子の原唱でご紹介します。



 岸壁の母          
 佇立在岸壁之母
           作詞:藤田まさと 作曲:平川浪龍 演唱:菊池章子
 
母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
届かぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて

母親來了 今天也來了
這個陡岸邊 今天也來到
無法如願 雖明知但
也許 也許 也許 也許
心懷著一絲希望


呼んでください おがみます
ああ おっ母さん よく来たと
海山千里と 云うけれど
なんで遠かろ なんで遠かろ
母と子に

請呼喊我一聲 懇求你
「啊! 媽媽 特地來了」
海與山相隔千里 話雖如此但
爲何 如此遙遠?  爲何 如此遙遠?
母子之間


悲願十年 この祈り
神様だけが 知っている
流れる雲より 風よりも
つらいさだめの つらいさだめの
杖ひとつ 
 
悲愴心願十年 這個祈求
只有蒼天明白知道
儘管雲朵飄過 儘管寒風吹過 更
艱辛的命運 艱辛的命運  
只有枴杖可依靠




岸壁の母/菊池章子(オリジナルシンガー)/復員船実景/舞鶴港



 おまけ 二葉百合子版 ▼

岸壁の母 - 二葉百合子