伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

晚安曲(おやすみの歌) 


《晚安曲》(おやすみの歌)は、中華民国(台湾)の地上波テレビ放送局である中國電視公司(ちゅうごくでんしこうし、略称は「中視」、「CTV」)が、1979年3月5日から毎晩放送終了時にその日の全ての番組が終了したことを告知するために放映した楽曲です。


 この楽曲は、作詞・作曲は台灣の著名な音楽家劉家昌(1940年或1943年4月13日-)の手になるもので、当時23歳で歌手デビューしたばかりの新人歌手費玉青(後に費玉清に改名、1955年7月17日-)が演唱していました。


 費玉清はその後数多くのヒット曲を発表するとともにバラエティー番組の司会などにも優れた才能を発揮して、台灣芸能界のトップスターの仲間入りを果たします。
 彼は、公の場での出演に当っては身だしなみに細心の注意を払い、デビュー以来昨年11月7日に芸能界を引退するまでの40年間、舞台に上がる時は必ず背広にネクタイ(1980年代以前は「背広」又は「中山服*」)を着用していました。
 そのため、台灣では“演藝圈公務員”(芸能界の公務員)と称されていました。

*筆者注:

 「中山服」とは、中華民国を建国した孫文の号:孫中山に由来する服で、現在の中共の人民服とほぼ同じものです。「中山服」と命名された理由は、この服を孫文が設計したからとも、孫文が国民党の制服に指定したからとも、孫文が好んでこの服を着たからともいわれていますが定説はありません。

 蛇足ながら、孫文の号「中山」とは、孫文が日本に亡命し東京府の日比谷公園付近に住んでいた頃、公園の傍に「中山」という表札を掲げた大邸宅があり、孫文はその表札の字が気に入って、自身を孫中山と号すようになり、日本滞在中は「中山 樵(なかやま きこり)」を名乗っていたことによります。なお、その邸宅の主は貴族院議員の中山孝麿侯爵で、孝麿の叔母中山慶子(中山一位局)は明治天皇の生母です。また別説としては、孫文亡命の協力を頼まれた犬養毅と平山周が、孫文の身分を隠すための日本名として、中山忠能(明治天皇の祖父)から拝借して付けたとする説もあります。


 費玉清が演唱した《晚安曲》(おやすみの歌)は、テレビで毎晩放送されたことにより、殆ど全ての台灣の人々の知るところとなり、テレビだけでなく図書館の閉館時や商店の閉店時、更には軍の兵舎の消灯時など様々な場面でこの楽曲が使われ続けて、40年を経た今でもその人気が衰えない国民的楽曲になっています。


 費玉清の芸能生活40年間を通ずる代表曲、本人の演唱でご紹介します。



 晚安曲
 おやすみの歌
                     作詞・作曲:劉家昌 演唱:費玉清
讓我們互道一聲晚安 送走這匆匆的一天
值得懷念的請你珍藏 應該忘記的莫再留戀

お互いに「おやすみ」の言葉を言い交わして 
この慌ただしかった一日を送り出そう
思い出にしておくべきことは君の心に大切にしまって 
忘れてしまうべきことはもう拘らないようにしよう


讓我們互道一聲晚安 迎接那嶄新的明天
把握那美好的前程 珍惜你錦繡的人生

お互いに「おやすみ」の言葉を言い交わして 
新しい明日を迎えよう
素晴らしい未来を掴んで 
美しく彩られる君の人生を大切にしよう


願你走進甜甜的夢鄉 祝你有個寧靜的夜晚
晚安 晚安 再說一聲 明天見

君が幸せな夢の世界に入れることを願い 
君に平穏で静かな夜が訪れることを祈る
「おやすみ」「おやすみ」 更にもう一言付け加えよう 「 また明日…」と。



 ライブ版▼

费玉清 晚安曲 金星秀 160210



 録音版▼

費玉清-晚安曲




 おまけ: 二胡演奏版 ▼ 

晚安曲 - 二胡版