伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

伊賀山人回顧録(少年編その6岡山県:12歳)

昭和38年(1963年)3月、伊賀山人12歳の春、小学校を卒業した。


【S38.3 小学校卒業式後、校庭において】
 左右に居るのが、大阪城で一緒に迷子になった同級生である。
 二人とも中学校の詰襟の制服を着ているが、この小学校では、卒業式に中学校の制服を着るのが慣例であった。
 私だけ、かなり小さくなった小学校の制服・制帽を着用しているのは、制服を買うお金が無く、かつ中学生の兄からのお下がりが間に合わなかったためである。
 なお、私は背が低いのがコンプレックスであった。
 左右の友より高く見せるため、写真には写っていないが、ブランコの上で精一杯背伸びをしているのである。


 そして、翌月、中学校に入学した。

【S38.4 中学校入学式後の同級生一同の記念撮影】
 大勢いて、分かりにくいが、前列左から3人目の草葉の陰に隠れそうなほど小さい生徒が、伊賀山人である。



【S38.10 吉備津宮内の生家にて】
 中学校の制帽のデザインが気に入らず、左に立っている伯父に貰った野球帽をいつも被っていた。

 その頃、近所の小母さんから、「女に気を付けなさいよ~」と言われたことがある。
 それが何を意味するのか少年の理解の範囲を超えていたが、私は、それを契機に女嫌いになってしまった。
 自分も女であるその小母さんの助言の深い意味は、男である自分には未だに分からない。(^_^;)


次回に続く・・・


伊賀山人回顧録(少年編その5岡山県:11歳)

 昭和37年(1962年)9月、父の勤めるカトリック系の病院に、伊賀山人の遠縁にあたる皇太子ご夫妻の行啓があった。
 現在の、天皇皇后両陛下である。
 伊賀山人、当時11歳の小学6年生、写真に写っていないのが少し残念である。


 【皇太子御夫妻】
 伊賀山人は、時々皇太子殿下に似ていると言われた。


 【美智子妃殿下】
 当時の妃殿下の写真を見ると、現在の皇后陛下の積年のご苦労によりやつれたお姿が痛ましい。



 【御出発】
 車は、日産プレジデント。
 この頃からカラー写真も少しづつ増えてくるが、価格が白黒写真の10倍くらいする高価な物であったので、まだまだ自宅で現像できる白黒が主流であった。



 【S37.11.15、小学6年生修学旅行大阪城前にて】


 翌年3月の小学校卒業を控え、大阪、奈良方面に修学旅行に行った時のものである。
 写真2列目中央に立っている女子の右に居るやや背の低い男子が伊賀山人である。

 このとき、私は悪友二人と共に児童の集団から外れて、勝手に城内を探索しているうちに道に迷い昼食を食べ損ねてしまった。
 その時、右端に写っている担任の岡崎先生に3人揃って饂飩を御馳走になったことを覚えている。
 因みに、私は饂飩が嫌いで滅多に食べたことが無かったが、この時から好物になった。


 この先生には、授業中廊下に立たされたり、教室の前に正座させられたり、時には平手で殴られたりした。
 無論、悪かったのは伊賀山人の方である。
 今だと教師による体罰として問題になるところであるが、当時はそれが当たり前であった。
 当時の子供は、そのようにして強く逞しく成長したものである。


「鉄は、熱いうちに打て」とは、そういうことであった。


次回へ続く・・・


伊賀山人回顧録(少年編その4岡山県:9歳、10歳)

 アルバムが別冊になっていて探しきれないのか、この時期の写真が殆ど見当たらない。
 なお、住居については、台所事情の好転により、昭和34年(1959年)12月22日、伊賀山人8歳の時、8畳一間から庭付き一戸建てに転居している。
 敷地300坪、母屋の他、離れの建物と、茶室の東屋を、白壁の土塀で囲んだ門構えも堂々たる旧武家屋敷であった。


【S35、9歳、旧武家屋敷に従兄来訪】
 豆炭を燃やす炬燵が唯一の暖房器具であった。



【S35、武家屋敷での寛ぎの一時】
 画像が不鮮明でよく分からないが、テレビゲームなどない時代、多分、トランプか将棋でもしているものと思われる。



【S35、10歳、岡山県津山市の伯母の夫の神社にて】
 義理の伯父が、出雲大社の美作分院の宮司であった。
 どういう訳か、私と兄とが分院創立80年大祭に招かれて、過分の饗応に与った。
 直立不動で行う儀式が長かったため、そのままの姿勢で固まっている。



次回へ続く・・・