伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

大空と大地の中で(天空和大地之中)


 「大空と大地の中で」は、日本のシンガーソングライター松山千春が1977年6月に発表したファースト・アルバム『君のために作った歌』(きみのためにつくったうた)のA面第2曲目に収録されている楽曲です。
 この曲は、北海道出身の松山千春の代表曲であり、さだまさしの「北の国から〜遥かなる大地より〜」と並んで、北海道をイメージするスタンダードナンバーとして40年を経た現在でも広く親しまれています。


 この楽曲は元々北海道で農業を営む松山の親友への応援歌として作られたもので、作詞・作曲共に松山によるものです。
 歌詞は、北の大地に生きる若者に「いつの日にか幸せをつかむために、今は様々な困難に挫けず前向きに進んで行け」と語りかける内容となっています。
 そのため、この曲は、日本の高校野球で北海道勢が甲子園に出場する際の応援歌としても、度々使用されています。


 また、今年8月20日には、新千歳空港発伊丹空港行きANA1142便の出発が、帰省ラッシュの影響で1時間以上も遅れて乗客のイライラが頂点に達する事態が生じました。
 その時、偶々乗り合わせていた松山千春から客室乗務員に「機内が和むように、歌いますよ」との申し出があり、客室乗務員がこの申し出を機長に報告、機長が特別に許可したことから、機内で乗務員用のマイクを使用して「大空と大地の中で」を熱唱するというサプライズ歌唱が実現しました。
 この時、歌だけでなく即興トークも展開、全日空に代わって遅延を謝罪し、出発を待つお客さんに「お疲れさまです」とねぎらいの言葉をかけ「地上係員も頑張っています。もう少し辛抱しましょう」と呼びかけました。
 松山の熱唱とトークのサービスにより機内のムードは一変して、乗客は大歓声と拍手で喜んだと報道されています。
 その時の歌唱について松山の事務所の関係者は「歌ったのは事実ですが、特にコメントすることはありません。」と多くを語ることはありませんでしたが、ANA広報は「遅延したことはお客さまにはおわび申し上げます。松山様には感謝申し上げます。」とコメントしています。


 2006年、松山千春のデビュー30周年を記念して、彼の出身地の足寄町で歌碑を建立することが町民の署名運動で盛り上がり、町議会満場一致の議決により同年9月15日に、松山が足寄から大きく旅立った玄関口であった旧国鉄足寄駅の跡地に建立されました。
 国鉄足寄駅は、1989年からは第3セクターの北海道ちほく高原鉄道が運営していましたが、利用者の激減に伴い、偶々松山のデビュー30周年となる2006年4月21日に廃駅となりました。
 この駅舎を利用して、8月9日に「道の駅あしょろ銀河ホール21」が開設されましたが、松山の歌碑はそれと併せて建立されたものです。
 この歌碑には、「大空と大地の中で」の歌詞と、松山の肖像、手形・足形などが刻まれており、手形に手をかざすと同曲が演奏される仕組みになっています。


 【旧国鉄足寄駅跡に建立された「大空と大地の中で」の歌碑】


 松山千春は、その独特の馴れ馴れしさと毒舌キャラとにより、兎角に好き嫌いの分かれる人物ですが、デビュー以来彼の優しい真心を知る北海道では変わらぬ好感を持たれており、就中出身地の足寄町では今でも絶大な人気を誇っています。


 広大無辺な北の大地を詠ずるこの曲が発表された丁度40年前の当時、北海道旭川市に住んでいた伊賀山人にとっても思い出の1曲です。



 大空と大地の中で
 天空和大地之中


果てしない大空と広い大地のその中で
いつの日か 幸せを
自分の腕でつかむよう
歩き出そう 明日の日に
ふり返るには まだ若い
ふきすさぶ 北風に
とばされぬよう とばぬよう

是與盡頭沒有的天空寬廣的大地那個中
是什麼時候的日 幸福
好像用自己的手臂抓住
走出那樣 向明天的日
向回顧過去 還年輕
刮大風的 向北風
好像不被迫飛的那樣 不飛


こごえた両手に 息をふきかけて
しばれた体を あたためて

爲凍僵的雙手 吹氣呼吸
暖和 結冰的身體

  
生きる事が つらいとか
苦しいだとか いう前に
野に育つ花ならば 力の限り生きてやれ

活的事 辣
困苦 說向之前
如果成長在野的花 最大限度活


こごえた両手に 息をふきかけて
しばれた体を あたためて

爲凍僵的雙手 吹氣呼吸
暖和 結冰的身體


生きる事が つらいとか
苦しいだとか いう前に
野に育つ花ならば 力の限り生きてやれ

活的事 辣
困苦說向之前

如果成長在野的花 最大限度活


こごえた両手に 息をふきかけて
しばれた体を あたためて
 
爲凍僵的雙手 吹氣呼吸
暖和 結冰的身體


果てしない大空と広い大地のその中で
いつの日か幸せを 

自分の腕でつかむよう
自分の腕でつかむよう~

是與盡頭沒有的天空寬廣的大地那個中
是什麼時候的日幸福

為了用自己的手臂抓住
為了用自己的手臂抓住~





松山千春 大空と大地の中で (2010年北海道ツーリングより)

旅人よ


 「旅人よ」は、日本の俳優兼シンガーソングライターの加山雄三が、自身10枚目のシングルレコードとして、1966年(昭和41年)10月15日に発表した楽曲です。
 このシングルレコードには「夜空を仰いで」がA面に収録されており、「旅人よ」はB面にカップリングされています。
 また、この2曲は12月15日に発表されたシングル「まだ見ぬ恋人」と共に、翌1967年元日に公開された加山雄三主演の映画「若大将シリーズ」の第9作となった「レッツゴー! 若大将」の挿入歌としても使われています。


 作曲は弾厚作(加山本人)、作詞は岩谷時子です。
 詞の内容は、晩秋の頃、故郷から遠く離れた草原を行く若き旅人に、命の限り夢を抱いて進みなさいと語りかける応援歌です。
 「いのち果てるまで」続ける旅とは、三次元的空間的な旅ではなく、四次元的時間的な旅を意味しています。
 三次元の「天地」を旅館に見立て、四次元の「時間」を旅人になぞらえることは、古来の詞詩文曲に見えるとおりです。
 人は時の流れと共に未来に向かって進む旅人であるという岩谷の考え方は、この古伝の思想を踏まえたものです。


 なお、第2節に見える「遠いふるさと聞く 雲の歌に似て」とは、分かりにくい表現ですが、「遠いふるさと聞く」とは、本来はこのような口語体の歌詞では「遠いふるさと聞く」とすべきところを、詞全体の韻律を整えるために敢えてこの句だけ文語調の表現にしたものと考えます。
 また、「雲の歌」が何を指すのかは本人でなければ分かりませんが、岩谷が7歳のときに発表された童謡「夕焼け小焼け」の可能性が高いものと思います。
 この童謡の中には直接「雲」という詞語は出てきませんが、岩谷の詞に見える「赤い雲」「夕陽」「空」「鳥」「星」などの詞語は、「夕焼け小焼け」を強く意識したもののように思えます。


  旅人よ
  旅人
         作詞:岩谷 時子、作曲:弾 厚作、唄:加山 雄三


1 風にふるえる 緑の草原
  たどる瞳かがやく 若き旅人よ
  お聞きはるかな 空に鐘が鳴る
  遠いふるさとにいる 母の歌に似て
  やがて冬が冷たい 雪を運ぶだろう
  君の若い足あと
  胸に燃える 恋もうずめて
  草は枯れても いのち果てるまで
  君よ夢を心に 若き旅人よ

  
為風顫動的 綠的草地
  溯尋的瞳孔放光的 年輕的旅人
  聽在遙遠的 天空裡鐘響
  與在遠的故鄉的 母親的歌相似
  不久冬天 冷的雪會運送
  你的年輕的足跡
  對胸燃燒的 戀愛也填埋
  草枯萎也 到生命終
  你 對心中有夢 年輕的旅人


2 赤い雲行く 夕陽の草原
  たどる心やさしい 若き旅人よ
  ごらんはるかな 空を鳥がゆく
  遠いふるさとに聞く 雲の歌に似て
  やがて深いしじまが 星を飾るだろう
  君の熱い想い出
  胸にうるむ 夢をうずめて
  時は行くとも いのち果てるまで
  君よ夢を心に 若き旅人よ
  ムムム……

  
紅的雲逝去的 夕陽的草地
  溯尋的心和善的 年輕的旅人
  請看 鳥去遙遠的天空
  與在遠的故鄉聽的 雲的歌相似
  不久深的寂靜 會裝飾星
  你的熱的回憶
  填埋在胸裡 濕潤的夢
       時候過去 到生命終
  你 對心中有夢 年輕的旅人
  mumumu……




加山雄三 - 旅人よ
 

盛唐李白作「春夜宴桃李園序」抜粋


(白文)

夫 天地者, 萬物之逆旅; 

  光陰者, 百代之過客。


(訓読文)

夫れ 天地は,萬物の逆旅(げきりょ)にして; 
   光陰は,百代(ひゃくだい)の過客(かかく)なり。


(現代口語訳)

そもそも 天地は,万物を迎え入れる旅の宿のようなものであり;

     時の流れは,永遠の旅人のようなものである。

     

 夕焼小焼

                      作詞:中村 雨紅 

                      作曲:草川 信

夕焼小焼(ゆうやけこやけ)で 日が暮(く)れて

山のお寺の 鐘(かね)がなる

お手々つないで 皆(みな)かえろ

烏(からす)と一緒(いっしょ)に 帰りましょう


子供(こども)が帰った 後からは

円(まる)い大きな お月さま

小鳥が夢(ゆめ)を 見る頃は

空にはきらきら 金の星