伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

ブログの閉鎖について

 今年いっぱいくらいは、投稿を続けようと考えていましたが、他に戦力を集中すべき問題が発生したため、止む無くブログを閉鎖することといたします。


 個人的な憤りである私憤は、見苦しくもあり滑稽でもあります。人として生きる限りは、世の為人の為、義憤公憤に生きてこそ潔くもあり美しくもあります。


 私は、弱い者いじめはしません。戦う相手が自分よりも大きければ大きいほど、強ければ強いほど、武道家の血が騒いできます。相手が国家権力であれば、不足はありません。


 3年前から、国を相手に国家賠償訴訟を継続中です。「金が目当てか?」と考えた方、賠償訴訟である限り当然その通りです。しかしながら、要求金額は50万円です。訴訟費用にもなりません。「なぜ、そのような割に合わぬことをするのか?」という方、銭金の問題ではありません。私の願いは、この国の正義をただし、同様の被害者を救済するとともに、2度と同じ被害を起こさぬ明るい社会を築くことにあります。これが、余命幾ばくもない私の人生最後にして、たった一つの夢です。


 国との間で暫く続いていた停戦状態が此の度思いがけずも終了し、雌雄を決する戦の庭に向かうことになりました。戦力の集中が必要なことは、リデルハートやランチェスターの法則を持ち出すまでもないことです。よって、ブログ記事を書くのも中止して、そのエネルギーをも主戦場に投入することと致しました。


 短い間でしたが、多くの方々の記事を拝見した感想を申し上げます。


 ペットをテーマにされている方の記事は、幸せ感満載で癒されました。


 逆に家族やペットを亡くされた方の記事には、胸が痛みました。このような方へのコメントで、新しい犬を買えとか、次の子供を産めとかの無知無能な心無いコメントには心底腹が立ちました。近くにいれば、石割の秘技をお見舞いしたかもしれません。


 海外に居住されている方の記事には、日本の常識が通用しないご苦労が偲ばれました。


 巧まざるユーモアをお持ちの方の記事は一服の清涼剤でした。


 高齢者の方の記事には人生哲学を感じました。


 一刀両断に竹を割るような清々しさを持つ毒舌家の記事には元気をもらいました。


 失礼ながら、中には愚にもつかぬ無意味な記事や、独善排他的なものも見受けられましたが、枯れ木も山のにぎわい、あるいは他山の石と解すれば、無駄な記事は一つもないでしょう。


 そして、何と言っても、台湾のmoli女史の記事には感動しました。台湾語を翻訳機にかけて日本語にしているため、8×8=64の原則からみると、殆ど2×2の美しい誤解の領域です。しかしながら、何度も読み返すほどに、一見、単純な単語の繰り返しのように見える文章が、美しい韻律を醸し出しており、言葉には表せない女史の深い教養と優れた人間性が感じられます。


 これから私は戦場に赴きます。最後にあたり、関係各位に深甚なる謝意を表するとともに、ブログ村の益々のご発展と村民各位のご健勝を祈念して、永のお別れ申し上げます。


~to moli小姐


吾尋問義有之對日本政府
自反而縮雖千萬人吾往矣
風蕭蕭兮伊賀山寒
壮士一去兮不復還


小姐、多謝! 再見!


情報伝達媒体の熱度について

 情報伝達媒体については、新聞、ブログ、記事へのコメントなどその種類により、熱度(相手方の受けとめ度合い)が異なります。


 例えば、「伊賀者は馬鹿だ」という記事を新聞に投稿したところで、読者は筆者の知性を疑うだけで、何の問題にもならないでしょう。これを、ブログで発信すると、熱度が大きいため、伊賀者のうち、包容力に欠ける者や余程暇な者が問題とすることが有りえます。更には、個人の記事に対するコメント欄に記載したとなると熱度は最高潮となり沸騰してしまいます。場合によっては、訴訟問題に発展することもあるでしょう。単なる井の中の蛙とそれを取り巻く腰巾着との井戸端会議の域を超えてしまいます。


 無用ないざこざを避けるためには、この熱度というものを理解しておく必要があります。人様の記事に異論を唱えるのであれば、論理的に根拠を示して更には愛情を持ってかかるべきでしょう。この際、自分の常識が必ずしも他人の常識ではないことを弁えておくべきです。これは、国際関係においても同じことです。


 本記事にも、当然異論はあるでしょう。炎上するほど多数のコメントをお待ちしています。ただし、愛情を持って・・・



追記: 今、この記事を書いている折も折、また一つのブログが炎上してこの村を去って行きました。残念なことです。


 発端となった炎上の火種は、子供の喧嘩にも等しき些末なことです。火消しに努める方がいらっしゃったことだけは、せめてもの救いというべきでしょう。


 火を点けた方、その火を煽った方、折角消えかけた火に油を注いだ方々にとっては、さぞかし我が意を得たりと、欣喜雀躍されていることでしょう。そのことの是非を論ずる時間的余裕は、今の私には残されていません。


 ただし、これだけは申し上げておきます。
 喜び舞い踊る人々のすぐ隣に、他人の辛さや悲しみがあることだけは知るべきです。
 大人になるとは、そういうことです。

批判と誹謗中傷との違いについて

 「批判」とは、他人の言動について、その誤った部分を、論理的に根拠を示して指摘し改善を求める行為です。これは、憲法が表現の自由として国民に保障する権利の一つです。


 「誹謗中傷」とは、厳密には「誹謗」と「中傷」とでは異なる概念ですが、他人を誹(そし)り貶(けな)すという面では共通しています。
 これらは、「批判」とは似て非なるもので、相手に改善を求める意図はなく感情的に責め立てるだけであり、名誉棄損罪や侮辱罪を構成する要件にもなります。


 ここで、注意すべきことは、「常識」という言葉です。「常識」という概念は、法律用語では「社会通念」と言います。社会通念は、ある一定の範囲の人々の間で反復して行われるようになったときには、慣習法として法規範の一つにもなりえます。しかしながら、慣習法になるまでには何十年もかかります。一般的に、我々が「それは社会常識だ!」という場合には、実は論理的根拠を欠く場合に独断と偏見により相手をやり込める手段となっていることです。裁判においても、これといった法規範が見つからない場合に判決で「社会通念」という文言が使われたりしますが、裁判官と検察官あるいは弁護士それぞれの立場により「社会通念」が異なることは言うまでもありません。


 ブログ社会の歴史は、たかだか10年くらいのものでしょう。社会通念を形成し確定するほど成熟はしていないものと考えます。
 裁判官ならともかく、市井の一般人が個人的見解に過ぎない「常識」を持ち出して、客観的根拠のない議論をしていたのでは妥協点は見い出せず、延々と誹謗中傷的非難の応酬が続くことになります。これもブログ炎上の原因の一つと言えるでしょう。


 上記の記事に、当然ご不満もあるでしょう。遠慮なくコメント欄に多くのご批判をお寄せください。ただし、根拠に基づく論理的なご意見を期待します。