伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居する隠者の戯言です。

風変わりな結婚式(観月懐古番外編)


 2~3年前の仲秋の頃、個人事業主の私にしては珍しく、実に久しぶりに結婚式に招待されました。


 私は山の神と共に、大阪のとあるレストランに赴きました。新郎新婦とその友人による手作り感満載の、所謂ジミ婚です。
 新婦は、エステクラブに勤めるバツイチ再婚とのことでした。新郎は、どこにでもある中小企業の従業員で、こちらは初婚です。
 なれ初めは、それぞれが別々に組んでいるアマチュアロックバンドのコンサートなどで知り合ったとのことでした。


 レストランに着いて驚きました。100人近くの参列者の中で、礼服にネクタイ姿の者など見渡す限り私一人だけでした。
 披露宴会場となる大ホールを埋め尽くす若者とその子供たちの殆どが普段着です。中には、金属の鎖やガラスの玉などを張り付けた衣装に身を包み、顔にはドーランを塗ったデーモン小暮閣下のような悪魔装束の者までいます。新婦の母親と思しき中年のご婦人が一人だけ、和服を上品に着こなしているのが場に花を添えて印象的でした。


 司会は、某ローカルテレビ局の女性アナウンサーです。
 その優しい声に促されて、別室の会議室で人前結婚式が執り行われました。凡そ厳粛とかしめやかとは無縁の式です。儀式の最中でも、悪魔どもは歓声を上げ、子供たちははしゃぎ回っています。殆ど、ハンク・ウィリアムズの「ジャンバラヤ」の世界です。


 何はともあれ、滞りなく式は終了し、次いで、大ホールで披露宴が始まりました。
 乾杯の音頭が終わるのも待ちかねて友人一同による余興が始まりました。いきなりヘビメタロックから始まります。壁は砕け天井は吹き抜けるかという程の大音量です。私もロックであれば、チャック・ベリーやプレスリー、ビートルズ、若いところでビリー・ジョエルくらいまでなら分かります。しかしながら、このヘビメタは分かりません。とにかく喧しすぎて歌詞が聞こえません。このような歌や踊りが一時間ほども続きました。私には分かりませんが、何か若者の心に響くものがあるのでしょう。参列者は子供も含めて大喜びでした。


 宴もたけなわの頃、司会の穏やかな声がホールに響き渡りました。
 披露宴定番の新婦から両親への手紙の朗読です。しかし、これも型破りでした。
 新婦の手紙は、実の両親あてではなく、新郎の両親、つまり義父母あてだったのです。
 
 手紙は、まず身の上話から始まりました。
 自分は幼いころ、両親に捨てられて養護施設で育ったこと、中学を卒業してから一人で食べてゆくため職を転々としたこと、その仕事は必ずしも世間体の良いものばかりではなかったこと、家族が欲しくて二十歳のころに結婚したこと、しかしそれが長くは続かなかったこと、今日、親代わりに参列してくれている和服のご婦人は以前お世話になったスナックの経営者であること、それから10年、結婚は既に諦めていたこと、新郎からプロポーズされて天にも上るほど嬉しかったこと、夢なら醒めないでと願ったことなどが切々と語られました。


 先ほどまでの乱痴気騒ぎが夢であったかのように会場は静まり返ります。それどころか、会場のそこ彼処ですすり泣きの声さえ聞こえてきます。
 隣に座っている山の神すら、ハンカチでそっと目頭を覆っています。(鬼の目にも涙)


 それから、両親(義父母)への感謝の言葉ならぬお詫びの言葉が続きます。
 結婚を決めた時にすぐ義父母に報告すべきであったこと、けれども自分の身の上を考えると新郎と釣り合わないと思ったこと、誰かに話してしまうとこの幸せが逃げてしまいそうで怖かったこと、入籍を急いで結婚式が後になったこと、しかもこの式次第も自分たちで勝手に決めてしまったこと、だけど今では全て報告しなかったことを後悔していること、入籍後義父母の方から自分のアパートを訪ねてこられて死ぬほど緊張したこと、もし義父母が怒っているのでなければ、自分を家族の一員にそしてできれば娘にしてもらいたいことなどが、涙とともにお詫びの言葉となって語られました。


 一体、誰がこの新婦を責めることができましょうか。


 天涯孤独の少女が、中学卒業以来、誰の力も借りずに、今まで必死で生き抜いてきたのであります。人の役にたち人に喜んでもらえる仕事であれば、職業に貴賤などありません。10代の小娘が、自立して生きてきたこと自体が称賛に値することでしょう。


 人間、二十歳も過ぎれば立派な大人です。大人には、自分の人生は自分で決める権利があります。
 結婚の報告が遅れたことを非難するなど、些末な感情論に過ぎないでしょう。
 この新婦の身上と心情とを思えば、義父母にそれを責める権利などないでしょう。
 しかしながら、結婚には両親の許しが必要とする古い観念が、今でも世間の一部で常識とされていることも事実です。


 義父母の感情を慮る司会のやや上擦った声が、新郎の父親の名を呼び、両親代表としての挨拶を求めます。


 寂として声なき会場を新郎の父親が泰然としてマイクに向かいます。


 この親父の第一声がまた変わっています。
 「先ほど来の、鐘や太鼓の大音声で、脳みそがすっかりウニ状態になってしまった。何を話すべきか思いつかない。」
 一同の胸中に不安がよぎります。


 親父は、構わず続けます。
 「新郎の友人諸君ならご存知だろうが、実はこいつはバカなのだ。」
 新郎新婦はじめ会場の空気が凍りつきます。


 「こいつが、小学1年生の時、家族で北海道に引越ししたことがあった。その冬、ワシはこいつに初めてスキーを教えた。シーズンの終わりごろ、こいつは何を考えたか、某新聞社主催の市民スキー大会に出ると言い出し、大回転小学1・2年生の部にエントリーした。2年生でなければ勝ち目が無いので、1年生で参加したのはこいつ一人だけだった。他の子供がステップターンで降りてくるところを、こいつだけはプルークボーゲンでおりてきた。それでも初めての競技用急斜面で何度転んだか数えきれない。その度に、こいつは転んだところまで駆け上ってはやり直しして人の何倍もの時間をかけて完走して、3位に入り銅メダルを貰った。1・2年生の大回転参加者は、10数人いたが、実は完走したのはこの3人だけだったのだ。それ以外の者は、全員途中の急斜面で転んで、その時点で棄権したのだ。大回転では、一度転ぶと大きな時間ロスになって上位入賞は難しい。転べば棄権するのが殆ど常識みたいになっている。こいつは、本当にあきらめの悪いバカなのだ。」
 会場の空気が少し和みます。


 「中学生になっても、このバカは続いた。ある日、学校の帰り道で、同級生の女子が体のデカい高校生にいじめられているのに出くわした。他の中学生は皆、関わり合いになるまいとして、見て見ぬふりをして通り過ぎてゆくのに、このバカはいきなりその高校生に殴り掛かり乱闘騒ぎに及んだ。幸いに不埒者を撃退することはできたが、おかげで親指を脱臼して一箇月も病院に通う羽目になってしまった。こいつは、身の程を考えず、人が困っていると義憤に燃えて、見て見ぬ振りのできないバカなのだ。
 おっ・・そういえば、〇〇(新郎の名)、あの年のクリスマスに貰った真っ赤なマフラー、まだ持っているのか?」
 会場に笑い声が聞こえてきます。


 「高校生になって、こいつはギターを買うために、近所のファミレスでアルバイトを始めた。ある夜更けにこの店に強盗が押し入った。店の金品を取られたところで、こいつには何の損害もない。ところが、このバカ、店を守ろうとして、強盗相手に立ち回りを演じてしまった。強盗は持っていたガソリンを、こいつにぶっかけて逃げて行った。火でもつけられていたら、今頃ここにはいないだろう。確かに、この店の店長は、バイト禁止の学校には内緒でこいつを雇って、いろいろ面倒を見てくれた。それなりの恩義は有るのだろう。こいつは、義のためには身の危険を顧みないバカなのだ。」
 バカバカと言いながら、この親父、実は息子の自慢話をしているのに漸く気付いた参列者からは、やんやの喝采が上がります。


 「こんなバカだから、一生結婚などできないだろうと思っていたが、縁あってこの度、バカを承知で付いてゆくという物好きな女子が現れた。この新婦も少しバカなのではないかと、密かにワシは ”期待” している。」
 「こんなバカな新郎新婦だが、諸君、どうかこれからも末永く付き合ってやってもらいたい。そして、このバカな夫婦が何か困難なことに出くわしたときには、ほんの少しでいいから、手を差し伸べてやってもらいたい。
 Like a bridge over troubled water!
 バカな親父のバカ話、このへんでお開きを頂戴します!
 今日は、遠路はるばる来てくれて本当に有難う!!


 会場、割れんばかりの拍手と大歓声です。
 一時はどうなることかと心配した司会もほっと胸をなでおろし、新郎新婦は抱き合って喜んでいます。


 宴も目出度くお開きとなり、私と山の神は、新郎新婦からそれぞれ引き出物を受け取って、仲秋の名月が照らす伊賀の山道を帰って来ました。


 自宅に辿り着いて、一服した後、引き出物の包みを開いてみました。


 山の神の包みには、仲秋らしく月餅の形をした紅白の餅が入っておりました。


 私の包みには、一瓶の無銘の酒が入っており、その白いラベルには、「お父さんへ 感謝をこめて」と書かれて、その横に寄り添うように新郎新婦の名前が記されておりました。


      次回へ続く

服部土芳の句碑(観月懐古完)

 伊賀国名張郡国見(現在の伊賀市種生)にある兼好法師終焉の地に服部土芳(はっとりとほう)の句碑が一つ残されています。


 服部土芳、本名は保英、通称は服部半左衛門と名乗っていた伊賀上野藤堂藩の武士でした。幼少の頃、同郷の俳聖松尾芭蕉に俳句を学び、長じて芭蕉の高弟の一人にも数えられた江戸時代初期の俳人です。
 この句を詠んだころには俳句に専念するため、既に藤堂藩を致仕(退職)して土芳と号しておりました。


 兼好法師没後350年となる元禄11年 (1698)、仲秋の一夕、土芳は名月を望み兼好法師を偲んで風雅な句を詠まんと欲し、この兼好法師終焉の地を訪れました。


 ところが、あたりは萩やススキの生い茂る見渡す限りの荒れ野原でありました。そこへ折しも満月が萩やススキに寄り添うように東の空から上ってきます。月の光は逆光となり荒れ野の草木は土芳の眼には黒い影絵のように映ったことでしょう。
 そのシルエットは、あたかも100年前の天正伊賀の乱で命を落とした伊賀者の亡霊のように見えたのかもしれません。


 忍者ハットリ君同様、自らも伊賀上忍の家系であった俳人土芳の心に去来するものは一体何だったのでありましょう。あるいは、非業の死を遂げた祖先や縁戚その他数多の伊賀者の悲痛な霊魂の叫びを感じ取っていたのかもしれません。


 土芳は、俳句には珍しく、「悲しさ凍る」という強く直接的な表現で、この碑に刻まれた次の一句のみを残して仲秋の名月が冷たく照らすこの地を去ったのであります。


 《月添ひて かなしさこほる 萩すすき》   合掌


天正伊賀の乱(観月懐古)

 「伊賀の乱」というと、伊賀者が何か騒動でも起こしたかのような印象を受けますが、そうではなく、この乱は戦国時代に天下征服を企む織田の軍勢が一方的に伊賀を攻め立てて壊滅させた侵略戦争です。


 織田の軍勢は、天正6年(1578年)から天正9年(1581年)にかけて3回、伊賀に侵攻しました。一般に1回目の前哨戦と2回目の本格侵攻とを併せて「第1次天正伊賀の乱」、3回目の決戦を「第2次天正伊賀の乱」と呼称しています。


 織田軍の総指揮官は、織田信長の次男で、当時北畠氏の養子となっていた北畠信意、後の織田信雄(以下、「織田信雄」に統一する。)でした。この人は、北畠氏の養子でありながら、その親族をだまし討ちにするなど卑怯な手段を使って伊勢国を手中に収めることには成功しましたが、さしたる武勲はなく、やや功を焦っていたようです。


 これに対し、防御側の伊賀は、もともと東大寺の寺領であったこともあり、国主が存在せず、小規模な領地を持つ郷士が割拠している状態で、伊賀全体の国策については、必要のつど、郷士の代表である伊賀十二人衆の合議により決定されていました。したがって、防御陣地の構成などではやや統一性を欠く面もありましたが、兵卒には忍者を多く抱えていたこともあり、山中に拠点を構えて奇襲・陽動などにより敵をかく乱する戦法に長けていました。


 1回目の前哨戦は、伊勢一国をまんまと掠め取った織田信雄が、次に伊賀の領有を企図し、その前進拠点とすべく、天正6年(1578年)3月、あろうことか伊賀盆地の真ん中にある既に廃城となっていた丸山城の修復をこっそり始めたことに端を発します。
 これを知った伊賀勢としては、自分の喉元に短刀を突き付けられたようなものですから、「直ちに追い払うべし」と衆議を決し、同年10月25日、丸山城のリフォーム現場へ忍者得意の奇襲攻撃をかけました。不意を突かれた織田勢は慌てふためき、僅か半日で伊勢の国へと敗走してしまいました。


 これに懲りるどころかすっかり頭にきた信雄、翌天正7年(1579年)9月16日、9500の兵を集めて伊賀に攻め入ります。これが、2回目となる本格侵攻です。
 迎え撃つ伊賀勢わずかに2000余ではありましたが、前哨戦から約1年の間に、伊賀盆地の隅々に陣地を構築して周到に準備して待ち受けております。
 ところが、攻める信雄の方は、衆を頼んで慢心しており、1年の間に何の準備もしていなかったようです。また、功を焦ったか、父信長にも無断の侵攻でした。
 伊賀勢は得意の奇襲戦、山岳戦などにより織田勢に大打撃を与えました。
 織田勢は、僅か2~3日の間に6000人以上の兵を失って、伊勢の国へ敗走しました。
 これが、伊賀勢の大勝利に終わった「第1次天正伊賀の乱」です。


 当時、京にいた信長は、自分に無断で兵を進めて大敗を喫した信雄の報告を受けて激怒して、親子の縁を切るとまで言い放ったそうです。
 
 このとき、信長は大阪の石山本願寺との抗争に明け暮れており、伊賀に兵力を割く余裕はありませんでした。そのため、伊賀者は、束の間の平和を楽しむことができました。


 それから2年後、石山本願寺との和議を整えた信長は戦略上の要衝である伊賀攻略を決意し、信雄に5万の大軍を預けて侵攻を命じます。
 総大将となった信雄は、天正9年(1581年)9月6日、伊賀盆地を包囲して四方八方から攻め入ります。これが、最後の決戦となる3回目の侵攻であり、「第2次天正伊賀の乱」です。


 守る伊賀勢は、他国からの増援を含めても僅かに9000、いかに奇襲に長けた忍者集団と言えどもこれでは到底勝ち目はありません。「降伏か抗戦か」、伊賀十二人衆の評議は夜を徹して行われました。このような時に、声高に主張する勇ましい意見が通りやすいのは、現在の町内会やPTAと似たようなものです。
 「生きて敗者の辱めを受けんよりは、最後の一兵となるも勇戦敢闘、死して後世に名を残すべし。」と決して、臨戦態勢に入ります。


 衆寡敵せず、約1週間の戦闘で伊賀は徹底的に殲滅されてしまいます。当時の伊賀の人口9万人のうち、女子供などの非戦闘員も含めて3万数千人が虐殺されたと伝えられています。
 当時、日本の人口が約1000万人、現在の十分の一以下であったことを考えると、伊賀はかなり栄えていた国といえますので、現在の感覚では100万都市で約40万人が殺されて壊滅したようなものだったでしょう。


 特に、戦の帰趨が決して後に、伊賀者が最後の砦として立て籠もった国見山城とその隣の草蒿寺周辺では、ネズミ一匹逃さぬ徹底的な殺戮が行われました。命を惜しまず勇戦敢闘した最後の忍者集団は戦陣に斃れ、その血は、見渡す限りの故郷の山河を夕焼けの空のごとく朱に染めてしまいました。戦い済んで日は落ちて薄暮の迫る戦場に、死者を弔う人一人だになく、東の空に輝く晩秋の満月だけが、累々たる屍に添うようにただ冷たく照るのみでありました。


 下級武士であった忍者集団はその大半が戦場の露となって消え去ることになってしまいました。ところが、「死して後世に名を残すべし」と檄を飛ばしていた諸将はいち早く他国に逃げて難を免れ、信長との和議が整ったころ伊賀に舞い戻ってきて、ちゃっかり元の領地に納まったとのことです。


 一軍の将たる者、確かに後世に名を残しました。ただし、美名ではなく汚名として・・・


 「一将功ならずして、万骨枯る」


   次回へ続く