伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

伊賀山人回顧録(小原台の青春その12:21歳の夏由布岳)

  合宿明けの1972年(昭和47年)8月13日、朝から、由布岳に登ることにした。

 【由布嶽】
 この山は、標高1583mであるが、湯布院町の標高が450mあるので、実質の比高は1100m位なものであった。
 頂上は二つに分かれており、上記画像では、左が西峯、右が東峯である。


 【小休止する伊賀山人】
 麓は、草の生い茂るなだらかなコースである。
 この日、頂上に至るまで、登山者を一人も見かけなかった。


 【再び小休止する伊賀山人】
 だんだん岩場が増えてくる。


 【頂上への分岐点】
 左は最高峰の西岳で、右は東岳である。
 まず、最高峰の西岳の頂上を極め、次いで東岳に登った。
 なお、この山登りで、伊賀山人が履いているのは、通常海水浴で使う当時100円くらいのスポンジ製のビーチサンダルである。


 【崖を登る伊賀山人】
 道は次第に険しくなり、所によっては、登攀用に鉄の鎖がぶら下がっている場所もあった。
 

 【西峯頂上に立つ伊賀山人】
 漸く由布岳最高峰西峯の頂上(1583m)に達した。
 西岳と言ったり、西峰と言ったり、どうもはっきりしないが取りあえず頂上である。
 なお、現在の標高は、公称1584mになっているようである。
 1mの差は、山が高くなったのか、測量の精度の違いによるのか判然としない。
  

 【東峯頂上に立つ伊賀山人】

 次いで、西峯より標高が3m低い東峯に登った。
 写真の標識には、「由布嶽(東峯頂上)」と書かれている。
 こちらも、東岳と言ったり、東峰と言ったり、読み書き共にはっきりしないが取りあえず頂上(1580m)である。 



 この後、下山するのであるが、午後は別府で観光地巡りをするつもりだったので、時間を節約するために駆け足で降りた。
 途中で、ビーチサンダルが破れてしまい、裸足で走る羽目になったが、足の裏の皮は長年の空手修行で分厚くなっていたので、特に痛くはなかった。


 麓に近づいたころ、登山服装で前を歩いている20歳くらいの女子に追い付きそうになった。
 私の裸足で走る足音に気付いたその女子は、振り返って私を見るなり慌てて逃げ出した。
 他に誰一人見かけない山道で、不審者に襲われるとでも思ったのであろうが、その恐怖は長くは続かなかった。
 ほんの数秒で、私はその女子を抜き去ってしまった。
 私が追い抜いた後も、その女子が走り続けていたかどうかは確認していない。


 下山して、登山口のバス停の傍にあった萬屋(コンビニのような雑貨店)でサンダルを買おうとしたが、田舎のことで置いてなかった。
 そのため、別府まで、裸足でバスに乗ることになり、小原台の貴公子としては少し恥ずかしい思いをした。


 やはり、海水浴で使うようなビーチサンダルは、1000メートル級の山に登るのには適していない。

 

 伊賀山人から良い子の皆さんへのお願い

「よい子のみんなは、由布岳にビーチサンダルで登らないでね~(^^)/」





伊賀山人回顧録(小原台の青春その11:21歳4学年夏合宿)

 1972年(昭和47年)8月、某大最後の空手合宿となった夏合宿は、大分県大分郡湯布院町で行った。

 【由布院駅に降り立つ伊賀山人】
 紛らわしいが、町名は「湯布院」で、駅名と温泉名とは「由布院」である。


 【湯布院公民館にて】
 時間が有ったので、公民館を訪れた。
 旅先では、必ず現地の風物に触れて、その地の文化や歴史を研究するのが伊賀流である。


 【浴衣で寛ぐ伊賀山人】
 この時の合宿は、早期に費用を積み立てていたので、由布山荘という国民宿舎に泊まることができた。
 4年間で初めて、クーラーのある部屋に宿泊することになったが、湯布院町は、標高450メートルの高原に位置するので、狭い部屋に大勢が住む学生舎の暑さに慣れていた伊賀山人にとってはクーラーなど必要ないくらい涼しかった。



 【カメラを手にする伊賀山人】
 この当時は、名前は忘れたが、オリンパスのハーフサイズのレンジファインダーカメラを使っていた。



 【合宿参加者全員記念撮影】
 最前列中央が、恩師中山正敏首席師範である。
 このような集合写真では、自分を探すのが難しい。
 読者各位で分かる人がいるかな~?


 合宿後、由布嶽に登り、次いで別府の名所巡りをしたが、長くなるので次回に廻す。



伊賀山人回顧録(小原台の青春その10:21歳4学年夏季訓練)

 一般読者の方々から見れば、時代錯誤の戦争ごっこのように見えるかもしれない。
 しかし、国民の生命や財産を守るためには、このような訓練も必要なのである。


 平和憲法が有るから国が守られているのではない。
 国が有るから平和憲法が守られているのである。

 古今東西、世界の歴史が証明するように、国を守る最終的手段は、軍事力である。



 【演習場へ向かう車中にて]
 移動中のトラックの中である。
 荷台の側板を前に倒すと長椅子になる仕組みである。



 【演習場にて】
 演習準備中の休憩時の一コマである。



 【昼食中】
 食事は、飯盒で食べることが多い。
 しかし、飯盒でコメを焚くことは滅多にない。
 炊事は、炊事車と言う釜付きの特殊な車両で作るので、飯盒は専ら食器として使用する。


 【50㎞行軍】
  重き荷を負うて道なき道を行くのも、戦術行動の基礎である。
 ただ歩いて終わりではない。
 目的地に到着したら、直ちに防御陣地を構築しなければならない。



 【塹壕掘り】
 塹壕などの掩体を掘るのは、陣地構築の基本である。



 【カメラを向いて何かを語る伊賀山人】
 多分、カメラマンに「お前も掘れ!」と言っているのだと思う。
 この姿から分かるように、伊賀山人は下手な土方よりも土方らしい。
 名前も、「歳三」なら、なお似合っていただろう。


 「よっ! 土方歳三!」



 【半長靴磨き】
 大地を踏みしめる足元は大事にしないといけない。



 【ポーカーフェイス】
 博打を打っているのではない。
 訓練の合間の気分転換である。
 しかし、どういう訳か小遣いが少し減った。


 

 【射撃訓練準備中の伊賀山人】
 射撃は、歩兵の本領である。
 これも国を守るための基礎となる訓練である。
 
 そもそも、国とは、領土、国民、主権の3要素からなる。
 どれ一つ欠けても、国民の生命・財産は守れない。


 【脚使用伏撃ち射撃姿勢】
 情緒的反戦平和主義者の方々からは、人殺しの練習など止めろと言われそうであるが、これも国を守るためには必要なことなのである。


 国の為とは言え、戦場に赴き身を命の危険に晒し、恩も恨みもない見ず知らずの敵と殺し合いを演じたい者など、誰一人いない。
 
 戦場に立った兵士の殆どは、その恐怖と自責の念によりCSR(戦闘ストレス反応)という心理的障害を受ける。
 場合によっては、社会復帰をした後にも、その後遺症に悩まされることになる。


 CSRの研究結果、一般人でも過重なストレスにより同様の症状を呈することが判明して、後にPTSD(心的外傷後ストレス障害)と名付けられている。


 兵士は、国民の代表として、大いなる自己犠牲の精神の下、兵士を人殺しと罵る空想的平和主義者や、はたまた、コンビニの田楽を指でつつくような馬鹿者をも含めて、国民全員を守るために危険を顧みず戦場に赴くのである。
 その覚悟と戦闘力とがあって初めて、戦争の抑止力となるのである。


 「百年兵を養うは、ただ平和を守らんが爲」である。


 真の反戦平和主義者とは、自分の身を常に安全圏に置いままで声高に平和を語る者ではなく、無言の兵士自身なのである。



 【帰校した伊賀山人】
 チェ・ゲバラではない。
 1箇月の演習で、このくらい髭が伸びる。
 moliさんに嫌われそうである。