伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

兼好法師終焉の地(当ブログタイトルの由来)

 兼好法師(けんこうほうし、1283年頃~1352年以降)、本名卜部兼好(うらべ かねよし)は、今から700年ほど前の官人であり歌人・随筆家でもあった人です。30歳頃に出家したため、自他共に兼好法師と称されていましたが、後の世に卜部氏が吉田と改名したことにより、江戸時代以降は吉田兼好(よしだ けんこう)と通称されています。


 兼好法師は、日本3大随筆の一つとして知られる「徒然草」を執筆したことで有名ですが、この徒然草は、本人生存中には日の目を見ず、没後100年くらい経ってから世に出ました。その頃には既に原本は失われており、いくつかの写本を残すのみでありました。現在伝わっているものは、その写本ごとに内容が少し異なるところもありますが、世の文筆家にとっては必携の書となっています。


 法師は、晩年、伊賀国名張郡国見山(現在の三重県伊賀市種生国見)にあった国見寺の一隅に庵を開き、余生を過ごす傍ら徒然草を執筆し、1350年に没してこの地に埋葬されたと伝えられております。法師がこの地で徒然草の草稿を練ったことを記念して、この「国見寺」は法師没後、その寺名を「草蒿寺(そうこうじ)」と改めて、七堂伽藍の建ち並ぶ大寺として約230年の歴史を刻んでおりました。


 ところが、戦国時代の1581年に至り、天下に覇を唱えんと目論む織田信長の軍勢に伊賀は攻め滅ぼされてしまいます。これぞ世に言う「天正伊賀の乱」。このとき織田軍主力の猛攻撃を受け追い詰められた伊賀の残党が、最後の砦として、この草蒿寺やその隣の国見山城一帯に立てこもりました。
 衆寡敵せず、寺も城も家も人もことごとく焼き尽くされて、兼好法師の遺品や徒然草にまつわる古文書もその全てが灰燼に帰してしまいました。


 時代は下り、この地の人々は兼好法師とその偉業を顕彰するため、明治38年(日露戦争の頃)には遺跡碑、昭和55年には記念碑(上記画像)を建立して現在に至っております。


 兼好法師が世に知られるのが遅かったこともあり、終焉の地については異説もありますが、伊賀の地に、法師と徒然草を顕彰する史跡が現存するのは、まぎれもない事実なのであります。


 当ブログのタイトル、「伊賀の徒然草」は、この故事にあやかっています。
 蛇足ながら、「徒然草」の「徒然」とはすることが無くて退屈なさまを言います。「草」とは植物の草ではなく、「起草」「草案」などの用法に見るように「詩歌や文章の下書き」の意です。


【「町史蹟」とは、平成16年の市町村合併による伊賀市発足前の旧青山町の史蹟の意】


  國破山河在  城春草木深・・・   合掌