天正伊賀の乱(観月懐古)
「伊賀の乱」というと、伊賀者が何か騒動でも起こしたかのような印象を受けますが、そうではなく、この乱は戦国時代に天下征服を企む織田の軍勢が一方的に伊賀を攻め立てて壊滅させた侵略戦争です。
織田の軍勢は、天正6年(1578年)から天正9年(1581年)にかけて3回、伊賀に侵攻しました。一般に1回目の前哨戦と2回目の本格侵攻とを併せて「第1次天正伊賀の乱」、3回目の決戦を「第2次天正伊賀の乱」と呼称しています。
織田軍の総指揮官は、織田信長の次男で、当時北畠氏の養子となっていた北畠信意、後の織田信雄(以下、「織田信雄」に統一する。)でした。この人は、北畠氏の養子でありながら、その親族をだまし討ちにするなど卑怯な手段を使って伊勢国を手中に収めることには成功しましたが、さしたる武勲はなく、やや功を焦っていたようです。
これに対し、防御側の伊賀は、もともと奈良の東大寺の寺領であったこともあり、国主が存在せず、小規模な領地を持つ郷士が割拠している状態で、伊賀全体の国策については、必要のつど、郷士の代表である伊賀十二人衆の合議により決定されていました。したがって、防御陣地の構成などではやや統一性を欠く面もありましたが、兵卒には忍者を多く抱えていたこともあり、山中に拠点を構えて奇襲・陽動などにより敵をかく乱する戦法に長けていました。
1回目の前哨戦は、伊勢一国をまんまと掠め取った織田信雄が、次に伊賀の領有を企図し、その前進拠点とすべく、天正6年(1578年)3月、あろうことか伊賀盆地の真ん中にある既に廃城となっていた丸山城の修復をこっそり始めたことに端を発します。
これを知った伊賀勢としては、自分の喉元に短刀を突き付けられたようなものですから、「直ちに追い払うべし」と衆議を決し、同年10月25日、丸山城のリフォーム現場へ忍者得意の奇襲攻撃をかけました。不意を突かれた織田勢は慌てふためき、僅か半日で伊勢の国へと敗走してしまいました。
これに懲りるどころかすっかり頭にきた信雄、翌天正7年(1579年)9月16日、9500の兵を集めて伊賀に攻め入ります。これが、前哨戦を含めれば2回目となる本格侵攻です。
迎え撃つ伊賀勢わずかに2000余ではありましたが、前哨戦から約1年の間に、伊賀盆地の隅々に陣地を構築して周到に準備して待ち受けております。
ところが、攻める信雄の方は、衆を頼んで慢心しており、1年の間に何の準備もしていなかったようです。また、功を焦ったか、父信長にも無断の侵攻でした。
伊賀勢は得意の奇襲戦、山岳戦などにより織田勢に大打撃を与えました。
織田勢は、僅か2~3日の間に6000人以上の兵を失って、またまた伊勢の国へと敗走しました。
これが、伊賀勢の大勝利に終わった「第1次天正伊賀の乱」です。
当時、京にいた信長は、自分に無断で兵を進めて大敗を喫した信雄の報告を受けて激怒して、親子の縁を切るとまで言い放ったそうです。
このとき、信長は大阪の石山本願寺との抗争に明け暮れており、伊賀に兵力を割く余裕はありませんでした。そのため、伊賀者は、束の間の平和を楽しむことができました。
それから2年後、石山本願寺との和議を整えた信長は戦略上の要衝である伊賀攻略を決意し、信雄に5万の大軍を預けて侵攻を命じます。
総大将となった信雄は、天正9年(1581年)9月6日、伊賀盆地を包囲して四方八方から攻め入ります。これが、最後の決戦となる3回目の侵攻であり、「第2次天正伊賀の乱」です。
守る伊賀勢は、他国からの増援を含めても僅かに9000、いかに奇襲に長けた忍者集団と言えどもこれでは到底勝ち目はありません。「降伏か抗戦か」、伊賀十二人衆の評議は夜を徹して行われました。このような時に、声高に主張する勇ましい意見が通りやすいのは、現在の町内会やPTAと似たようなものです。
「生きて敗者の辱めを受けんよりは、最後の一兵となるも勇戦敢闘、死して後世に名を残すべし。」と決して、臨戦態勢に入ります。
衆寡敵せず、伊賀盆地に点在していて相互支援の難しい防御陣地は各個撃破を受けて、約1週間の戦闘で伊賀は徹底的に殲滅されてしまいます。当時の伊賀の人口9万人のうち、女子供などの非戦闘員も含めて3万数千人が虐殺されたと伝えられています。
当時、日本の人口が約1000万人、現在の十分の一以下であったことを考えると、伊賀はかなり栄えていた国といえますので、現在の感覚では100万都市で約40万人が殺されて壊滅したようなものだったでしょう。
特に、戦の帰趨が決して後に、伊賀者が最後の砦として立て籠もった国見山城とその隣に位置する兼好法師縁の草蒿寺周辺では、ネズミ一匹逃さぬ徹底的な殺戮が行われました。命を惜しまず勇戦敢闘した最後の忍者集団は戦陣に斃れ、その血は、見渡す限りの故郷の山河を夕焼けの空のごとく朱に染めてしまいました。戦い済んで日は落ちて薄暮の迫る戦場に、死者を弔う人一人だになく、東の空に輝く晩秋の満月だけが、累々たる屍に添うようにただ冷たく照るのみでありました。
下級武士であった忍者集団はその大半が戦場の露となって消え去ることになってしまいました。ところが、「死して後世に名を残すべし」と檄を飛ばしていた諸将はいち早く他国に逃げて難を免れ、信長との和議が整ったころ伊賀に舞い戻ってきて、ちゃっかり元の領地に納まったとのことです。
一軍の将たる者、確かに後世に名を残しました。ただし、美名ではなく汚名として・・・
「一将功ならずして、万骨枯る」
次回へ続く
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