伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

俳画について

 俳画(はいが)とは、俳句を賛した簡略な絵(草画)のことで、漢詩の詩意圖に相当します。
 俳句を詠んだ人が自分の句への賛として自ら描く(自画賛)こともあれば、他人が描くこともあります。
 また、先に絵がありこれを賛するために句がつけられる場合や、絵と句とが同時に成るような場合もあります。
 いずれにしても、俳句と俳画とは、その句意と画意とを相互に補い合う関係にあります。
 
 今回は、女流歌人多嘉(1883.7.1~1974.7.4)の俳画をご紹介します。
 作句も書も絵も彼女自身の手に成るものです。


【きぬ朝の別れうらめし 西東】


 この句は、別れの朝の心残りを詠じたものです。
 季語の無い無季俳句ですが、俳画に朝顔を描くことにより、季節は夏であることを表わしています。

 上五に見える「きぬ朝」とは、古文の文法からは少し外れています。
 「来てしまった朝」であれば「きぬる朝」、単純に「来た朝」であれば「きし朝」又は「こし朝」と書くのが正しいのです。


 それでは何故「きぬ朝」と表現したのでしょうか?
 実は、この「きぬ」は「来ぬ(きぬ)」と「衣(きぬ)」との掛け言葉になっているのです。


 平安時代の古語に「衣衣(きぬぎぬ)」という言葉があります。
 当時、夜寝る時には、布団のような寝具はなく昼間着ていた衣を掛けて寝るのが一般的でした。
 「衣衣(きぬぎぬ)」とは、二つの衣を重ねるとの意から転じて、二人の衣を重ね掛けて共寝をした男女が翌朝それぞれの衣を着て別れることを意味するようになりました。
 更には、別れの「朝」を意味することもあれば、朝夕の時期に拘らず「別れ」そのものを指すなど、幅広く使われる詩語です。
 この為、平安時代以降、「後朝(きぬぎぬ)の歌」というジャンルで数多くの和歌が詠まれています。


 多嘉の俳句は、この「後朝(きぬぎぬ)の歌」を踏まえて詠んだもので、作者の意図は次のように解釈できます。


「衣を重ねて楽しい一夜を共にしたのに、もう別れの朝が来てしまった。心残りで悲しいわ、西と東に別れるなんて…」


 この伊賀山人の解釈には、動かぬ証拠が有ります。


【きぬぎぬの朝うらめしや 西東】


 表装されていないこちらの俳画は、多嘉が「きぬ朝」の句の推敲の過程で描いたものです。
 この句では、「きぬぎぬの…」と明確に詠われています。


 これらの俳画は、多嘉晩年90歳ころの作品です。


 「90歳の老婆がこんな艶めかしい俳句を作るなど年甲斐もなく滑稽千万。」などと、嘲笑ってはいけません。


 何しろ、明治・大正・昭和の時代を生きて、91歳という若さでこの世を去った女流歌人多嘉こと濱野瀧野は、伊賀山人の実の祖母なのですから…


【昭和37年岡山市文化センターで開催された三曲(さんきょく:地歌三味線(三弦)、箏、胡弓の三種の楽器の総称)合奏会に招待を受けて列席した折の多嘉こと濱野瀧野81歳】