伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

友達にしたい人(徒然草より)

 徒然草は、鎌倉時代末期の兼好法師の随筆ですが、僧侶特有の無常観に基づく厭世思想が書かれているわけではありません。


 兼好法師は、今から700年も前の人とは思えないほどの論理的・合理的な思想の持ち主でした。
 徒然草に書かれているのは、法師の幅広く奥深い教養に基づく人生哲学なのです。


 兼好法師の哲学の根底にあるのは、人の寿命には限りがあり、しかもいつ何時寿命が尽きるかは誰も知ることはできない。だからこそ、今のこの一瞬すらも大事に生きなければならないとする人生観です。言い換えると、「時は金なり」どころか「時こそは命なり」とさえ言っているのであります。


 徒然草で、友について語られているのは第117段です。ここでは、先ず前段で友にしたくない者を7種類挙げて、後段で、友にするとよい者を3種類挙げております。


 良い友の三種類として、次のように記述されています。


「よき友三つあり。一つには、物くるる友。二つには、医者(くすし)。三つには、智慧ある友。」


 一人目の「物をくれる友」とは、そのまま読むといかにも物欲しげで俗物的に聞こえるので、学者によっては、これは兼好法師の冗談だとする説もありますが、私はそうは思いません。その理由については、最後に述べます。


 二人目の「医者」については異論はないでしょう。医師に限らず看護師や薬剤師などの医療関係者は病気の苦痛を和らげ、場合によっては、寿命を伸ばしてくれることもありえます。一人くらいは友達になっておきたいものです。


 三人目の「知恵ある友」にも異論はないでしょう。学者や弁護士その他の教養のある方と友達になっておけば、人生はより有意義で楽しいものになるでしょう。また、いざという時には不測のトラブルを解決してくれることも期待できます。


 最後に、改めて、一人目の「物をくれる友」について考察してみます。
 結論から先に言うと、兼好法師本来の思想から鑑みるに、ここでは単なる物欲しさを言っているのではなく、その物に込められた「気持ち」のことを言っているのだと解釈できます。


 兼好法師の時代、都では貨幣経済が主流になりつつありましたが、地方では、須らく物々交換で経済は回っておりました。つまり、「物」とは現在の「お金」とほぼ同義語だったのです。


 ここで、私のような貧乏書士がお金の話などすると、如何にもさもしい奴だと言われそうですが、そうではありません。お金を稼ぐためには、少なからぬ時間や労力が必要です。また、贈り物を選ぶには、相手が何を喜ぶかを考える想像力と思いやりとが必要になります。極言すると、相手の為を思って、自分の命や人生を消費しているとも言えるものなのです。
 それほど大事なお金や物であるからこそ、それらには、金額の多寡にかかわらず贈る人の「気持ち」が込められるのでしょう。


 先の東日本大震災において、義捐金10億円を寄付した大会社の社長がいます。片や、千円を寄付した小学生の女の子もいます。被災地救援のための効果としては、確かに10億円は千円の百万倍の価値があります。しかしながら、その義捐金に込められた「気持ち」に差異はありません。若しかすると、少女の方が上かも知れません。なぜなら、少女の千円は、家のお手伝いを一箇月もして、欲しいものを買うために漸く貯めたお小遣いだったのですが、自分の買いたい物を我慢して拠出したものなのです。同様のことは、南アジアの奥地にある貧しい山国の褞袍を着た王様が贈ってくれた百枚の毛布にも言えることでしょう。片や、社長の10億円は、根拠のない憶測になりますが、社長室に一箇月くらいふんぞり返っているだけで手に入るものだったのかもしれません。


 だからこそ、被災地の老婆が、義捐金を寄付する少女の映像に涙し、王様の毛布により身体だけでなく心まで温めることができたのでしょう。


 当事務所がご相談を承っているお客様は、失礼ながら経済的に余り恵まれてはいない方が大半です。そのような方から相談料を頂くことは殆どありません。
 本日、思いもよらず、ある相談者の方からとても高価な物が送られてきました。無料相談のお礼としては不相応なほどの物でもあり、やや心苦しくも感じましたが、徒然草の「物くるる友」に思いを致し、ありがたく頂戴いたしました。


 当事務所では、メール・電話・FAXによるご相談はすべて無料です。
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