伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

ユニセフ国際親善大使オードリー・ヘプバーン

 今回は、歿後四半世紀を経過したアメリカの女優オードリー・ヘプバーンのユニセフ国際親善大使としての側面についてご紹介します。


 【1953年の映画『ローマの休日』に主演したオードリー・ヘプバーン】


 ユニセフとは、終戦翌年の1946年12月11日に、戦後の国際緊急援助のうち子供を対象とした活動を行うために設立された国際連合総会の補助機関、国際連合国際児童緊急基金(こくさいれんごうこくさいじどうきんきゅうききん、英: United Nations International Children's Emergency Fund:略称はUNICEF)のことです。


 当時は日本も主要な被援助国の一つで、1949年から1964年にかけて、主に脱脂粉乳や医薬品、原綿などの援助を受けました。
 伊賀山人も子供のころ、学校給食で毎食脱脂粉乳を飲んで育ちました。
 脱脂粉乳は、現在では加工乳の原料として使用されているもので、そのまま飲むと決して旨いものではありませんが、それでも食糧難の時代には貴重な栄養源でした。


 その後ユニセフは、戦災地への緊急援助が行き渡るのにしたがって次第に活動範囲を広げて、開発途上国と戦争や内戦で被害を受けている国の子供への支援を活動の中心にするようになり、『ローマの休日』が公開された1953年に正式名称を国際連合児童基金(こくさいれんごうじどうききん、英: United Nations Children's Fund)に変更しましたが、略称はUNICEF(ユニセフ)のまま使用しています。


 ユニセフ国際親善大使とは、ユニセフの広報活動を効果的にするためユニセフ本部が任命するもので、世界的に有名な俳優・歌手・スポーツ選手などがそれぞれ個別に委嘱を受けて就任しています。
 大使の任務は、各大使の才能や業績および知名度を生かして、ユニセフの支援活動に対する人々の関心を高めることにあり、マスメディアを通しての広報活動を中心に、紛争地域への訪問や政界への働きかけなどを主な活動内容としています。
 なお、大使は完全な名誉職で、ユニセフからの報酬は1円も出ません。
 そのため、大使それぞれで、紛争地域にまで出かけて活動する人もいれば、殆ど何の活動もしない人もいます。



 

 【1961年の映画『ティファニーで朝食を』に主演したオードリー・ヘプバーン】


 オードリー・ヘプバーン(英: Audrey Hepburn、1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、ベルギー出身のイギリス人で、アメリカ合衆国のハリウッド映画の黄金時代に活躍した女優です。
 映画界ならびにファッション界のトップスターとして知られており、アメリカン・フィルム・インスティチュート (AFI) の「最も偉大な女優50選」で第3位にランクインするとともに、インターナショナル・ベスト・ドレッサー (en:International Best Dressed List) にも選ばれて殿堂入りしています。
 オードリーの衣裳は当時フランスで頭角を現していた新人デザイナーのユベール・ド・ジバンシィ(Hubert de Givenchy、1927年2月21日 - 2018年3月10日)の手になるものでしたが、映画の中での華麗なイメージとは違って、オードリーが普段の暮らしの中で好んで着ていたのはカジュアルで気楽な衣服でした。


 オードリーは、イギリスで数本の映画に出演した後に、アメリカに活動の拠点を移し、1953年にグレゴリー・ペック(Eldred Gregory Peck、1916年4月5日 - 2003年6月12日)と共演した『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得してトップスターの仲間入りを果たしました。
 その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『パリの恋人(Funny Face) 』(1957年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの人気作、話題作に出演して、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品である『オンディーヌ』(en:Ondine (play)) でトニー賞を受賞しています。
 さらにヘプバーンは死後にグラミー賞とエミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっています。


 オードリーが銀幕にデビューしたころのハリウッド女優の美人の条件はマリリン・モンロー(Marilyn Monroe、1926年6月1日 - 1962年8月5日)に代表される「グラマー」と「セクシー」でした。
 身長こそ170cmあったオードリーですが、カモシカのように細身の肢体に清楚な顔立ちの彼女はその条件に合致せず、「Funny Face(ファニー フェイス:可笑しな顔、変な顔)」と評されて揶揄されました。
 しかし彼女はそのようなことは気にせず、却ってそれを逆手に取り、『Funny Face(邦題:パリの恋人) 』と題する映画にも主演しています。
 彼女の魅力が広く世間に知られるようになってから、「Funny Face(可笑しな顔、変な顔)」の意味合いも徐々に変化して「個性的で魅力のある顔」と考えられるようになり、現在では、「Funny Face」は褒め言葉としても使用されるようになっています。


 オードリーはその女優業を年齢と共に減らしてゆき、後半生のほとんどをユニセフでの活動に捧げました。
 オードリーがユニセフへの貢献を始めたのは『ローマの休日』で名声を博した直後の1954年からで、1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に邁進しています。


 オードリーがユニセフ国際親善大使に就任したのは、既に活動を30数年続けてきた1989年のことで、その時の就任インタビューでオードリーは次のように語っています。

「私は、ユニセフが子どもたちにとってどんな存在なのか、はっきり証言できます。なぜなら、私自身が第二次世界大戦の直後に、食べ物や医療の援助を受けた子どもの一人だったのですから。


 実は、第二次世界大戦中、オードリーはドイツ軍占領下のオランダのアーネムに住んでいました。
 そこでは、ドイツ軍による食糧略奪の被害を受けて、市民に大勢の餓死者がでる惨状を呈していました。
 当時16歳のオードリーも飢えて痩せ衰えていましたが、ドイツが降伏した直後にユニセフの前身であるアンラという慈善団体から大量の食糧援助を受けて、餓死寸前で命を救われたのです。



 【アフリカで活動するオードリー・ヘプバーン】


 ユニセフ国際親善大使に就任したオードリーは亡くなるまでの4年間、文字どおり命を削る献身的な活動を続けて、 当時最悪の食料危機に陥っていたエチオピアやソマリアをはじめ、世界十数カ国をめぐり、子どもたちの声なき声を代弁し続けました。


 オードリーが現地に赴く時には、現地の人々が馴染みやすいように、化粧なしの作業服姿でした。
 そのため、白人とは思えぬ程日焼けして顔中をシミやそばかす、年齢相応以上の皺が覆い、往年の「Funny Face」は見る影もなく、全く別人のような顔つきになってしまいました。
 しかし、本人はそのようなことは全く意に介さず、寧ろ子供たちを救ってきた活動の証であり、恰も神の与えた勲章のように思っていました。


 現地で活動中のオードリーは、次のような言葉を残しています。


「政治家たちは子供たちのことにはまったく無関心です。でもいずれの日にか人道支援の政治問題化ではなく、政治が人道化する日がやってくるでしょう」


「奇跡を信じない人は現実主義者とはいえません。私はユニセフがもたらした、水という奇跡を目にしてきたのです。何百年にもわたって、水を汲むために少女や女性たちが何マイルも歩く必要がありました。でもいまでは家のすぐそばに綺麗な水があるのです。水は生命です。綺麗な水はこの村の子供たちの健康と同義なのです」


「貧しい場所に住む人々はオードリー・ヘプバーンはご存知ないでしょうが、ユニセフという名前を覚えてくださいました。ユニセフという文字を目にしたときにそのような人々の顔が明るくなります。何かが起こるということが分かっているからです。例えばスーダンでは、水を汲み上げるポンプは「ユニセフ」と呼ばれているのです」



 【ソマリアの子供を抱いて遠くを見据える晩年のオードリー・ヘプバーン】


 オードリーは、死去する4箇月前の1992年9月に、ソマリアを訪問しました。
 当時のソマリアは、以前ヘプバーンが心を痛めたエチオピアやバングラデシュを上回るほどの悲惨な状況にありました。
 ソマリア視察中、オードリーは自らの体調の異変に気がつきますが、誰にも言わず痛みを我慢しながら仕事に励みました。
 個人的な事情で、荒廃したアフリカの国々を訪問する任務が果たせなくなることを恐れたからです。
 ソマリアから帰国すると、その支援を訴えるべくヨーロッパを廻り、救済キャンペーンに参加しました。


 10月になってスイスのレマン湖近傍のトロシュナ (Tolochenaz)村にある自宅に帰ったオードリーは、余りの激痛のため、地元の病院で診察を受けますが、原因がはっきりしませんでした。
 精密検査を受けるためにアメリカのロサンゼルスへと渡り、11月1日にシダーズ=サイナイ医療センター (Cedars-Sinai Medical Center) で腹腔鏡による検査を受けて腹部に悪性腫瘍があり、虫垂にも転移していることが判明しました。


 11月中旬に開腹手術が行われましたが、この悪性腫瘍は腹膜偽粘液腫と呼ばれる極めて珍しいがんの一種で、何年もかけて成長したため、すでに身体各部に転移しており、外科手術による摘出は不可能であると判断されたため、なす術もなくそのまま切開部は縫合されてしまいました。
 医者は手術後直ちにオードリーに抗がん剤の投与による化学療法を開始しました。
 ところが、手術から数日後オードリーは腸閉塞を併発して、12月1日に再度開腹手術を行うことになってしまいました。


 病気に加えて、二度に亘る手術がオードリーに回復不能なダメージを与え、最早ベッドの上に起き上ることも出来なくなってしまいました。


 オードリーの余命がわずかであることを知らされた家族たちは、彼女の最後になるであろうクリスマスを自宅で過ごさせるために、スイスの自宅へと彼女を送り返すことを決めました。
 しかしながらベッドから起き上がることもできないオードリーは、通常の国際便での旅には耐えることができない状態でした。
 このことを知ったオードリーの衣装デザイナーで長年にわたる友人であるユベール・ド・ジバンシィが、メロン財閥のポール・メロンの妻レイチェル・ランバート・メロンに頼んで、メロンが所有するプライベートジェット機をオードリーのために手配しました。
 そして多くの花々で満たされたこのジェット機が、オードリーをロサンゼルスからジュネーヴまで運びました。


 オードリー・ヘプバーン危篤の報を受けたアメリカ合衆国大統領ジョージ・ブッシュ(George Herbert Walker Bush, 1924年6月12日 - 所謂「父ブッシュ(パパブッシュ)」)は、12月12日、ユニセフ国際親善大使として長年に亘り意欲的に活動して多大な成果を挙げたオードリーに対し、アメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章(Presidential Medal of Freedom)を授与してその労をねぎらいました。
 この勲章は、通常7月4日のアメリカ合衆国独立記念日に授与するのが慣例であったこともあり、大統領ブッシュは緊急記者会見を開いて、オードリーの功績を遍く国民に知らしめて顕彰しました。


 家族や友人たちの配慮により、スイスの自宅で楽しいクリスマスを過ごしたオードリーは、新年を迎えた1993年1月20日の夕方、多臓器不全により63年の生涯を閉じました。


 オードリーの訃報に接した『ローマの休日』以来の親友グレゴリー・ペックは、オードリーが好きだったラビンドラナート・タゴールの詩 "Unending Love"(果てしなき愛)を涙ながらに朗読して、13歳年下の旧友の早すぎる逝去を悼みました。


 オードリーの葬儀は、4日後の1993年1月24日にトロシュナ村の教会で執り行われました。
 この葬儀には、家族の他、友人のユベール・ド・ジバンシィを始めアラン・ドロンやロジャー・ムーアなど各界の有名人や、ユニセフを始めとする諸機関・政府などの高官ら多数の人々が参列しました。
 高齢や体調不良のため参列できなかったグレゴリー・ペックやエリザベス・テイラー、更にオランダ王室などからは献花が届けられました。


 葬儀に引き続き、その日の夕刻、オードリーはトロシュナ村を一望できる小高い丘の上にある小さな墓地に埋葬されました。



 【トロシュナ村の丘の上にあるオードリー・ヘプバーンの墓地】


 オードリーの墓地は、一般墓園の1区画で、棺が漸く入るだけの小さくて質素なものですが、今でも世界中から訪れる弔問者の絶えることがありません。


 オードリーは生前、自らの人生について問われて、次のように答えています。

"How shall I sum up my life?

  I think I've been particularly lucky."


「私の人生をどのように言い表せばよいのでしょう?

 考えてみると、とりわけ幸運なものであったと思います。」


         ー 完 ー

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