伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

春望(春の眺め)


  本日立春に当たり、盛唐の詩人杜甫(とほ、712年ー770年)作の五言律詩「春望」をご紹介します。
 この作品は、757年の春、杜甫46歳(数え年)の折に長安で詠じたものです。


 当時の時代背景は、755年11月に勃発した安禄山の乱(755年11月ー763年1月)の真っ最中で、唐の都の長安は、1年以上続く戦乱により破壊し尽くされて、756年6月には賊軍の占領するところとなっていました。
 なお、この乱を起こした安禄山は757年1月(杜甫が「春望」を詠ずる2箇月前)に次男の安慶緒の一味に謀殺されています。長安に抑留されていた杜甫はそのことを知っていたはずですが、安禄山の死亡については緘口令が敷かれていましたので、事実関係をあからさまに口外はできなかったでしょう。


 杜甫は756年8月に賊軍に捕らえられて長安に抑留されていましたが、官職の低い杜甫を賊軍も捕虜として厳重に拘束はしていなかったようで、杜甫は長安城やその周辺を比較的自由に行動して多くの詩を書き残しています。


 この「春望」は、杜甫が抑留されたままで年を越した春に詠じたもので、その大意としては、荒れ果てた長安の都でも昔から変わらずに残っている山河と、春になると例年通り生い茂る草木や花や鳥の情景を描写しつつ、遙遠の地にいる家族を思い、自らの身の不運を詠ずるものになっています。


 詩形は五言律詩で、全部で八句、二句一聯の四聯(首聯、頷聯、頸聯、尾聯)からなっています。
 律詩の決まりごととして、頷聯と頸聯の中の二句は対句とすることになっていますが、この詩では首聯の中の二句(國破山河在,城春草木深。)も対句になっており、しかもそれぞれの句の中の語句も名詞・動詞が文法上対応する句中対(國・破/山河・在,城・春/草木・深)になっています。なお、ここでは「春」は動詞として使用されています。


 頷聯の「感時花濺涙,恨別鳥驚心。」については、一般的には「杜甫が花や鳥を見て涙を流し心を痛めている」と解されていますが、花や鳥を主語と見做して、擬人法として「花が涙を流し、鳥が心を痛めている」とする説もあります。
 また、頸聯の「烽火連三月」に見える「三月」とは、「安禄山の乱が始まってから戦火が今年の三月まで1年以上続いている」とする説と「この年一月に安禄山が次男の安慶緒に殺害されてから戦火が足掛け三箇月続いている」とする説とがあります。
 どちらの説を採用するも読者の自由です。
 元々、杜甫はどちらにでもとれるようにダブルミーニング的に作っているのですから、後世の人が口角泡を飛ばして議論して、どちらか一方の説に決定しなければならないようなことでもないでしょう。


筆者注:

 漢文・漢詩を訓読する場合には、漢字2字以上の熟語については音読み、単漢字の場合には訓読みする習わしになっています。

 從って、「城」は「しろ」と訓み下しているテキストが多くありますが、ここで言う「城」は敵の侵入を防ぐための建物ではなく、「長安城」(ちゃうあんじゃう)即ち長安の町全体を指していますので、「城」は敢えて音読みの「じゃう」にしておきます。

 なお、音読みの訓み方については唐代の発音に近い「字音仮名遣い」を採用しています。



       春望             
                               杜甫  
(首聯)國破山河在,城春草木深。
(頷聯)感時花濺涙,恨別鳥驚心。
(頸聯)烽火連三月,家書抵萬金。
(尾聯)白頭掻更短,渾欲不勝簪。




 春望(しゅんばう)


國(くに)破(やぶ)れて 山河(さんが)在り,
城(じゃう)春にして 草木(さうもく)深し。
時に感じては 花にも涙を濺(そそ)ぎ,
別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす。
烽火(ほうか) 三月(さんげつ)に連なり,
家書(かしょ) 萬金(ばんきん)に抵(あ)たる。
白頭(はくとう) 掻(か)けば更に短く,
渾(すべ)て 簪(しん)に勝(た)へざらんと欲す。



 春の眺め


国の都(長安)は破壊され尽くしてしまったが、山河は昔のまま残っており、
長安城(市街)にはまた春が巡って来て、草木が深く茂っている。
戦乱の時節を感じては、愛でるべき花を見ても涙が流れ、
家族との別離を恨んでは、楽しむべき鳥の声を聞いても心が痛む。
兵乱の急を知らせる狼煙火(のろしび)は三箇月も続いており、
家族からの便りは万金にも値する貴重なものに感じる。
愁いに耐えず白髪頭を掻きむしると髪はさらに短く少なくなり、
殆ど冠を留める簪(かんざし)も挿せないようになろうとしている。



 【唐詩三百首註解】