伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

仰げば尊し(米国編)〔Song for the Close of School〕

【アメリカの楽譜集「歌のこだま」に収録されている「仰げば尊し」の原曲(右下部)】


 日本の唱歌「仰げば尊し」は、1884年(明治17年)3月29日付「小学唱歌集第三編」に記載して発表された文部省唱歌ですが、この楽曲の作者は永年不明でした。


 しかし、2011年1月に一橋大学名誉教授の桜井雅人が、旋律やフェルマータの位置が「仰げば尊し」と同一である「Song for the Close of School」(学校卒業の歌)という楽曲が、1871年に米国で出版された楽譜集「The Song Echo」(歌のこだま)に収録されていることを発見しました。
 この楽譜集は、基本的に初出の歌曲のみを載せていることと、これ以外の収録歌集が現在知られていないことから、この楽曲こそが原曲であると推測されています。
 この楽譜集の表紙の注釈には、「A Collection of Copyright Songs, Duets, Trios, and Sacred Pieces, Suitable for Public Schools, Juvenile Classes, Seminaries, and the Home Circle」(公立小中学校、少年クラス、神学校及び家庭のサークルに適するデュエット、トリオ及び聖歌の著作権のある楽曲集)と記載されています。
 同書では作詞者を「T.H.BROSNAN(T.H.ブロスナン)」、作曲者を「H. N. D.」であるとしています。
 作詞者のブロスナンは当時は学校の校長でその後保険業界で活躍したことが知られていますが、作曲者の「H.N.D.」については『歌のこだま』の編者ヘンリー・パーキンズ(Henry Southwick Perkins、1833-1914)とする仮説もありますが、確たる証拠は見つかっていません。


 この楽譜集を文部省音楽取調掛で二十歳になったばかりの伊澤修二(いさわ しゅうじ、1851年7月27日(嘉永4年6月29日) - 1917年(大正6年)5月3日) が入手して、日本語の歌詞を大槻文彦・里見義・加部厳夫の合議によって作り、『歌のこだま』発表の13年後の1884年(明治17年)に『小学唱歌集』第3編に収録して発表したのが「仰げば尊し」の始まりであると考えられています。
 なお、伊澤修二はその後も教育者兼文部官僚として活躍して、特に近代日本の音楽教育、吃音矯正の第一人者として知られています。
 また、1894年(明治27年)の日清戦争後に日本が台灣を領有すると、伊澤修二は台灣へ渡り台灣總督府民政局學務部長心得に就任して、台灣で最初の小学校を設立するなど統治教育の先頭に立っています。
 現在の台灣の「仰げば尊し(靑靑校樹)」は、歌詞については戦後新たに作られたものですが、曲は伊澤修二が台灣赴任時に伝えたものと考えて間違いないでしょう。


 原曲の英語版の歌詞は、教室への思い出を詠ずるところは日本版と同じですが、友人との惜別の情をより明確にしていることと、恩師に関わることが一言もなく全編を通して神への畏敬の念を詠じているところに特徴があります。


 アメリカでは現在、この英語版の楽曲は忘れ去られており、卒業式で歌われることはありません。
 例外的に、10人ほどのサークルの卒業式で、卒業生の一人が独唱している動画を見たことがありますが、聴衆は殆ど無関心でよそ見をしている状態でした。


 そもそもアメリカの卒業式では、合唱をする習慣がなく、もし歌うとしても国歌『星条旗』だけのようです。
 卒業生を見送る時には、合唱曲ではなく、スーザの『星条旗よ永遠なれ』やエルガーの『威風堂々』などの勇ましい行進曲で送り出すようで、日本や台灣のような感傷的な雰囲気ではないようです。


 卒業式とは別の卒業記念パーティーでは合唱もされますが、曲目は流行歌手のラブソングが殆どで、純粋な卒業歌とは言えません。


 その他の国の卒業歌も調べてみましたが、アメリカと同様で、国歌を歌うところはあるものの卒業歌を歌う国は見当たりませんでした。
 そもそも、卒業式専用に作られた卒業歌そのものが存在しません。


 要するに、純粋な卒業歌を持つ国は、日本と台湾だけのようです。
 この古き良き伝統が継承されることを願いつつ、「仰げば尊し」3部作の最後にあたり原曲の英語版による演唱をご紹介します。



 Song for the Close of School
 学校卒業の歌
 學校畢業之歌
1
We part today to meet, perchance, Till God shall call us home;
And from this room we wander forth, Alone, alone to roam.
And friends we've known in childhood's days May live but in the past,
But in the realms of light and love May we all meet at last.
我らは今日別れ、まためぐり逢うのは、恐らくは神の家に召される時であろう。
そして、この教室から我らは歩み出て、一人で、只一人で流離うことになるだろう。
そして、幼な馴染みの友は、過去の思い出の中で生き続けるだろう。
しかし、光と愛の御国で、我々すべてが人生の最後のときには再会できるだろう。

今朝一別再相會 , 或許要到上帝召喚我們後 ;
從此教室我們漫遊人生 , 獨白漫遊。
童年時期的友們 , 也許活在過去的記憶裡 ,
僅在光和愛的領域中 , 願我們終究相會。

 
2
Farewell old room, within thy walls No more with joy we'll meet;
Nor voices join in morning song, Nor ev'ning hymn repeat.
But when in future years we dream Of scenes of love and truth,
Our fondest tho'ts will be of thee, The school-room of our youth.
ごきげんよう古き教室よ、汝の壁の内にありて、我らが楽しく集うことは二度とない。
朝の歌に声を揃えることも、夕べの賛美歌を繰り返すことももう二度とない。
しかし、幾年も後の未来においても、我らはこの愛と真実の場を夢見る。
我らの最も大切な思い出は、汝の中にある、我らが青春の日々を過ごした汝教室の中に。

告別了舊校舎 , 在校園裡 將不再有我們過往的喜樂 ;
無復晨歌合唱 , 亦無晩詠復誦。
但是多年後當我們神往 , 愛與真誠之境 ,
我們再美好的將是 , 校園教室内的青春年少。


3
Farewell to thee we loved so well, Farewell our schoolmates dear;
The tie is rent that linked our souls In happy union here.
Our hands are clasped, our hearts are full, And tears bedew each eye;
Ah, 'tis a time for fond regrets, When school-mates say "Good Bye."
ごきげんよう我らが心から愛した教室よ、ごきげんよう親愛なる学友たちよ。
我らの魂を、幸せな仲間としてここに繋いできた絆は解き放たれた。
我らの手は固く握られ、心は満たされ、そして涙はそれぞれの目に溢れている。
ああ、今こそは惜別の時、いざ学友たちよ「さらば」と言おう。

告別了我們所摯愛的 , 告別了親愛的同學 ;
短暫的同窗之誼 , 快樂的將我們心靈在此連結。
我們緊握雙手 , 心中充滿喜樂 , 涙眼婆娑 ;
啊 ' 當同學們互道珍重時 , 是惜別的時刻說“再見”。




札幌コダーイ合唱団 Song for the Close of School (仰げば尊し)




『Song for the close of school』A Cappella Original Arrangements by K.T



 仰げば尊し(日本編)は、こちら↓


 仰げば尊し(台灣編)は、こちら↓

仰げば尊し(台灣編)〔青青校樹〕


 日本の唱歌「仰げば尊し」は、台灣でも戦前の日本統治下で歌い継がれてきました。
 戦後、この曲に台灣の作詞家張方露が台湾国語の歌詞を付けて、現在でも台灣の卒業歌として殆ど全ての学校の卒業式で歌われています。


 歌詞の内容は、恩師への感謝の念を詠ずるところは日本と同じですが、日本の歌が「身を立て 名をあげ やよ励めよ」と、私的な立身出世を歌うのに対し、台灣の歌は第三節で主として男子に対し「 民主共和,自由平等,農工兵商に憑(つ)いて任(にん)とせん,」と詠じて、政治的社会的な貢献を歌っているところに特徴があります。
 これは、終戦直後の国民党政府が台湾に進駐した頃には、大陸中共からの侵略が迫っていたことも影響していますが、公と私とを比ぶれば公が重しとする台灣人の意識が現れているものと考えられます。
 なお、歌う主体としては、第1節は卒業生、第2節は在校生、第3節は全員の立場に区分されています。


 この詞は、日本の「仰げば尊し」の四四六調に倣って、漢字で四字四字六字で1句を為す文語文定型詩に作られており、しかも句末に古来の平水韻と部分的には現代の台灣國語の音韻とで脚韻を踏んでいます。
 今回は、訓読文と和訳とを添付してご紹介します。



 靑靑校樹 
 
靑靑たる校樹
 
青々とした校庭の樹


1節(卒業生演唱)
靑靑校樹,萋萋庭草,欣霑化雨如膏,
筆硯相親,晨昏歡笑,奈何離別今朝。
世路多岐,人海遼闊,揚帆待發清曉,
誨我諄諄,南針在抱,仰瞻師道山高。
靑靑(せいせい)たる校樹(かうじゅ),
萋萋(せいせい)たる庭草(ていさう),
欣霑(きんてん) 雨と化(くゎ)して 膏(あぶら)の如し,
筆硯(ひっけん) 相(あ)ひ親しみ,
晨昏(しんこん) 歡笑(くゎんせう)す,
今朝(こんてう) 離別するを 奈何(いか)んせん。
世路(せいろ)  多岐(たき)にして,
人海(じんかい) 遼闊(れうくゎつ)たり,
帆を揚げ 清曉(せいげう)を待ちて發(た)たん,
我を誨(をし)ふること 諄諄(じゅんじゅん)たれば,
南針(なんしん) 抱(いだ)くこと在り,
仰(あふ)ぎ瞻(み)る 師道  山の高きを。

青々とした校庭の樹
ふさふさとした校庭の草
湿気が恵みの雨となるのを喜ぶ
筆と硯のように親しみ 
朝晩喜びと笑いを共にした 
今朝の別れを一体どうすれば良いのだろうか?
人生に分かれ道は多く
人の世は 海のように果てしなく広い
帆を上げて清新な朝の船出を待とう
私に丁寧に繰り返し教え諭して頂き
人生の指針となったご指導を心に抱いている
仰ぎ見れば我が師の教えの道は山のように高い


2節(在校生演唱)
靑靑校樹,灼灼庭花,記起嚢螢窗下,
琢磨幾載,羨君玉就,而今光彩煥發。
鵬程萬里,才高志大,佇看負起中華,
聽唱離歌,難捨舊雨,何年重遇天涯。
靑靑たる校樹,
灼灼(しゃくしゃく)たる庭花(ていか),
記(おも)ひ起こすは 嚢(ふくろ)の螢ほたる 窗(まど)の下(ほとり),
琢磨(たく ま) せし 幾載(いくとせ),
君の 玉就(ぎょくしゅう)を羨(うら)やむ,
而今 (じ こん) 光彩(くゎうさい) 煥發(くゎんぱつ)す。
鵬程(ほうてい) 萬里(ばん り) ,
才(さい) 高くし 志(こころざし) 大(おほ)いにして,
佇(たたず)み看る 中華を負起(ふき)するを,
離歌(りか)を 聽き唱(うた)へども,
捨て難(がた)き舊雨(きう う),
何(いづ)れの年(とし)にか 重(かさ)ねて天涯(てんがい)に遇(あ)はん。

青々とした校庭の樹
炎のように咲き誇る校庭の花
思い起こすは 薄絹の袋に入れたホタルや 窓のほとりの雪明かりで勉学に勤しんだこと
学業に励んだこの幾年月
貴兄が玉のように磨き上げられるのを羨んだ
そして今貴兄は輝かしい光彩を現した
大鵬が萬里を翔るように貴兄の行く道は果てしなく遠い
才を高くし志を大きく持って
祖国中華を背負い立つ姿を佇んで見ていよう
別れの歌を聴きそして歌っていても
捨て難い旧友と
一体何年先に遥か遠くの地でまた会うことが出来るのだろうか


3節(全體合唱)
靑靑校樹,烈烈朝陽,宗邦桑梓重光,
海陸天空,到處開放,男兒志在四方。
民主共和,自由平等,任憑農工兵商,
去去建樹,前行後繼,提攜同上康莊。
靑靑たる校樹,
烈烈(れつれつ)たる朝陽(ちょうよう),
宗邦(そうほう) 桑梓(さう し)  重(かさ)ねて光(かが)やく,
海 陸 天空,
到る處(ところ) 開き放つ,
男兒 志は 四方に在(あ)り。
民主 共和,
自由 平等,
農工兵商に憑(つ)いて任(まか)せん,
去(ゆ)き去(ゆ)きて 樹(じゅ)を建(た)て,
前へ 行(ゆ)く 後(うしろ)を 繼(つ)ぎて,
提攜(ていけい)し 同(とも)に 康莊(かうさう)を上(のぼ)らん。

青々とした校庭の樹
燦々と降る朝日の光
祖国と故郷は再び輝いている

海陸天空
到る所が開き放たれており
男子の志は遍く四方にある
民主共和
自由平等の理念の下
農業・工業・兵役・商業それぞれの任務を果たそう
大樹のような目標を建てて任務に邁進し
先人の後を継いで
助け合って共に天下の大道を進んでゆこう





青青校樹


(次回へ続く)