伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

仰げば尊し(日本編)

 【映画『二十四の瞳』〔1954年(昭和29年)松竹〕記念写真撮影の一場面】

 後列左から:田辺由実子(加部小ツル)、上原博子(片桐コトエ)、石井裕子(“マちゃん”/香川マスノ)、高峰秀子(“小石先生”/”泣きみそ先生”/大石先生/大石久子) 神原いく子(“フジちゃん”/木下富士子)、草野節子(“マッちゃん”/川本松江)、加瀬かをる(山石早苗)、小池泰代(“ミーさん”/西口ミサ子)

 前列左から:宮川真(“キッチン”/徳田吉次)、佐藤国男(“ニクタ”/相沢仁太)、渡辺五雄(竹下竹一)、郷古秀樹(“ソンキ”/岡田磯吉)、寺下雄朗(“タンコ”/森岡正)


 『仰げば尊し』(あおげばとうとし/あふげばたふとし)は、1884年(明治17年)3月29日に文部省音楽取調掛編纂で発行された『小学唱歌集第3編』に収録されて発表された日本の唱歌です。
 この唱歌は、卒業生が教師に感謝し学校生活を振り返る内容の歌で、特に明治から昭和にかけては学校の卒業式で広く歌われ親しまれてきました。
 曲調は8分の6拍子で、ニ長調または変ホ長調など編曲されたものが何種類か存在します。


 卒業歌としてはこの歌こそが古今の絶唱と言えるものであり、1954年に公開された映画『二十四の瞳』(にじゅうしのひとみ、主演:高峰秀子、松竹)では、主題歌としてオープニング・エンディング並びに劇中で子供たちにより合唱されています。


 作詞者・作曲者については、文部省唱歌の通例として公表されてはいませんが、近年の研究により、1871年に米国で出版された楽譜に収録されている「Song for the Close of School(卒業の歌)」が原曲であることが判明しています。
 原曲では、作曲者を「H. N. D.」(詳細不明)、作詞者を「T. H. ブロスナン」(1838~1886,ニューヨーク)と記載されています。


 この曲を文部省音楽取調掛の伊沢修二らが取り入れて、日本語の歌詞は、大槻文彦・里見義・加部厳夫の合議によって作られたと言われています。


 歌詞は、四四六調の定型詩ですが、訳詩とは思えぬ程、曲に日本語のアクセントをよく合わせており、式典に相応しい見事なハーモニーを醸し出しています。


 2007年(平成19年)には「日本の歌百選」の1曲にも選ばれている名曲ですが、文語調の歌詞が難しいとか、立身出世を詠ずることが時代に合わないとか、恩に感ずるほどの教師がいないとかの理由で、現在、日本の小・中学校では余り歌われていませんが、台灣の学校では定番の卒業歌となっています。


 この程度の簡単な文語文なら小学生の時から親しんでおくべきであり、立身出世する者もいなければ社会は成り立たないのであり、教師は須らく生徒から尊敬されるように個人の充実を図るべきであると考えるのですが、この一事からして真正的日本精神が失われているように見受けられるのは残念なことです。



 仰げば尊し
 
仰望師尊


1節
仰げば  尊し   我が師の恩  あふげば たふとし わがしのおん
教の   庭にも  はや幾年   
をしへの にはにも はやいくとせ
思えば  いと疾し この年月   
おもへば いととし このとしつき
今こそ  別れめ  いざさらば
  いまこそ わかれめ いざさら~ば
一仰望 師尊 即感 吾師之恩
在 校園 亦 早已 數載
一回想起來 相當 快速 此之 歲月
就在當今 要離別 珍重再見


2節
互に   睦し   日ごろの恩  たがひに むつみし ひごろのおん
別るる  後にも  やよ忘るな  
わかるる のちにも やよわするな
身を立て 名をあげ やよ励めよ  
みをたて なをあげ やよはげめよ
今こそ  別れめ  いざさらば  
いまこそ わかれめ いざさら~ば
彼此 和睦相處且 平日之 恩情
即便 別後 亦 切莫忘記
立身 揚名 至吩 砥礪
就在當今 要離別 珍重再見


3節
朝夕   馴れにし 学びの窓   あさゆふ なれにし まなびのまど
蛍の   灯火   積む白雪   
ほたるの ともしび つむしらゆき
忘るる  間ぞなき ゆく年月   
わするる まぞなき ゆくとしつき
今こそ  別れめ  いざさらば  
いまこそ わかれめ いざさら~ば
朝夕 塾習了的 校舎之窗
螢火蟲之微光 堆積之白雪(螢雪之功)
一刻也不會忘記 流逝 歳月
就在當今 要離別 珍重再見




仰げば尊し わが師の恩



 (次回へ続く)

清平調(鄧麗君の遺作)


 〈清平調〉は、日本では奈良時代に相当する支那唐代の詩人李白(701年(長安元年) - 762年10月22日(寶應元年9月30日)が作った七言絶句三首からなる「楽府題」といわれる漢詩の一種です。


 「楽府題」とは、漢代以前に元々曲があってその曲に合うように替え歌のような詩を作っていたころの、その曲名のことを言います。
 唐代には、その曲自体は既に失われており、どのようなものだったかは分かってはいませんでしたが、数多くの楽府の題名だけが知られており、多くの詩人がその題に合わせて詩を作っています。
 「淸平調」とは、楽府題の一つで、曲の調子のことを意味しています。
 ここで取り上げる李白の詩は、当時の玄宗皇帝が楊貴妃を伴って都長安の興慶宮で牡丹の花を見る遊宴を催した際、李白に命じて作らせた詩で、内容は妖艶な「牡丹」の花や伝説上の「群玉山の仙女」「瑶台の神女」「巫山の神女」などの理想の美人や、更には漢代の代表的な美人「趙飛燕」などを引き合いに出して楊貴妃の美しさを褒め讃えたものです。


 この李白の「淸平調」を、1300年の時を超えて1995年4月、東洋の歌姫こと鄧麗君(テレサテン、1953年1月29日 - 1995年5月8日)が、作曲家の曹俊鴻を迎えて新たに曲を付けて録音を開始しました。
 「淸平調」三首を一通り歌い上げて録音しましたが、更に何か付け加えたかったようで、そのままにしていたところ、翌5月完成を待つことなく鄧麗君はタイ・チェンマイのメイピンホテルで客死したため、この曲は未完成のままで、鄧麗君の遺作となってしまいました。


 時は下って2013年5月,香港の歌手の王菲(ウォン・フェイ、1969年8月8日 - )が、この未完成の曲に後半部分を付け加えて、北京で開かれた「鄧麗君60追夢紀念演唱會(テレサテン生誕60周年記念コンサート)」で、鄧麗君との合唱形式にして発表しました。
 そして、王菲はこの曲を再録音して、2015年5月8日鄧麗君の逝去20週年の命日に「合唱版(テレサ・テンwithフェイ・ウォン)」の形で発表しました。
 なお、この王菲は、「広東語のアルバム累計売り上げで世界一」と認定されてギネスブックにも掲載されているアジア圏を代表する歌手の一人で、香港では第二のテレサ・テンとも呼ばれています。


 この曲は、その後も別のいくつかのバージョンが発表されていますが、今回は王菲と鄧麗君との合唱版と鄧麗君の遺作となった未完成版とを併せてご紹介します。



 淸平調
 淸平の調べ
                               
 其一(平水韻上平二冬)
雲想衣裳花想容, 雲には 衣裳を想ひ 花には容(かたち)を 想ふ,
春風拂檻露華濃。 春風 檻(かん)を拂って 露華(ろくゎ)濃(こまや)かなり。
若非羣玉山頭見, 若(も)し羣玉山頭(ぐんぎょくさんとう)に見るに 非らずんば,
會向瑤臺月下逢。 會(かなら)ずや 瑤臺(ようだい)月下に向(おい)て逢はん。
雲を見ると楊貴妃の衣裳が思われ、 牡丹の花を見ると楊貴妃の容顔が思われる。
春風が沈香亭の窓格子を払ってそよぎ、露が美しく輝きながら牡丹の花に降りている。
これほどの美人は、西王母(仙女の聖母)の住む郡玉山のほとりで見る仙女でなければ
仙人の宮殿である瑶台の月明かりの下で巡り会う神女に違いない。

            
 其二(平水韻下平七陽)
一枝紅艷露凝香, 一枝の紅艷(こうえん) 露 香を 凝らす,
雲雨巫山枉斷腸。 雲雨 巫山(ふざん) 枉(むな)しく 斷腸。
借問漢宮誰得似, 借問(しゃもん)す 漢宮 誰か似たるを得ん,
可憐飛燕倚新粧。 可憐の飛燕(ひえん) 新粧(しんしゃう)に倚(よ)る。
一枝の艶やかな紅牡丹の花に露がその香りを凝結させたかのような美人を見るにつけ、
昔、巫山で雲や雨になった神女を追い求めて嘆いた楚の懐王はむだなことをしたものだ。
ちょっとお尋ねするが、漢の宮殿でもこれほどの美人に似た人は誰かいただろうか。
可憐な趙飛燕が化粧したばかりの誇らしげな容姿こそが楊貴妃の姿に似ているのだ。


 其三(平水韻上平十四寒)
名花傾國兩相歡, 名花 傾國(けいこく) 兩(ふたつ)ながら 相(あ)ひ歡び,
長得君王帶笑看。 長(とこしへ)に 君王の笑ひを帶びて看ることを 得たり。
解釋春風無限恨, 春風の無限の恨(うら)みを 解釋(かいしゃく)して,
沈香亭北倚蘭干。 沈香亭北(ちんかうていほく) 蘭干(らんかん)に倚(よ)る。
牡丹の名花と絶世の美人、どちらも共に楽しみ合っている、
その様子を、我が君は笑顔でいつまでもご覧になっている。
そして、春風がもたらす限りない春の愁いをお解きほぐしになりながら、
興慶宮(こうけいきゅう)竜池のほとりの沈香亭北側の欄干にもたれていらっしゃる。



 王菲と鄧麗君との合唱版

王菲 -《清平調》合唱版 MV



 鄧麗君の未完成版

清平調(鄧麗君Teresa Teng生前錄音未發行)(清晰版)



 唐詩三百首【淸平調 李白】