伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居する隠者の戯言です。

泣いてたまるか (不哭嗎)


 『泣いてたまるか』は、TBS系列で1966年から1968年まで放映された、同名の1話完結形式の連続テレビドラマの主題歌です。
 このドラマは、毎回脚本家が変わり、俳優の渥美清(あつみ きよし、1928年(昭和3年)3月10日 - 1996年(平成8年)8月4日)が毎回違う役柄で出演するというコンセプトで始まりました。


 当時、渥美清は肺病の後遺症で体力がもたず、青島幸男や中村嘉津雄が代理で主役を務めることもあり、後に渥美主演作品のみの再放送やDVDの発売がされるようになってからは、『”渥美清の”泣いてたまるか』と肩書を付けて呼ばれることもあります。
 その中で最終回の山田洋次が脚本を手がけた「男はつらい」という1話は、その後渥美清主演の代表作である『男はつらいよ』の連続テレビドラマ化および映画化につながっています。


 このドラマの中での渥美の役どころは、寅さん風のアウトロー的な役はもちろん、トラックドライバー役、実直な教師役や平のサラリーマン役、更には偽傷痍軍人役等、多岐に亘っていますが、どの主人公にも共通するのは、お人好しでいつも一所懸命努力するもの世間には認められず、いつも他人の後塵を拝して損ばかりしているいる不器用な男を表現しています。


 主題歌の『泣いてたまるか』は、そのような不器用で不運な男の泣きたい気持ちに耐えて生きて行こうとする心情を詠じたもので、中村嘉津雄主演の時には木更津次郎が歌っていますが、その他は渥美清が演唱しています。


 作詞は良池まもる、作曲は木下忠司で、1966年クラウンレコードから発売されています。



泣いてたまるか 
不哭 忍耐嗎
           作詞:良池まもる 作曲:木下忠司 演唱:渥美清
天(そら)が泣いたら 雨になる
山が泣くときゃ 水が出る
俺が泣いても なんにも出ない
意地が涙を
… 泣いて 泣いて たまるかヨ…
通せんぼ

天如果哭成為雨
山哭的解水出來
我哭什麼都也不出
意氣使眼淚
…不哭 不哭 忍耐嗎…
擋住去路


海は涙の 貯金箱
川は涙の 通り道
栓をしたとて 誰かがこぼす
ぐちとため息
… 泣いて 泣いて たまるかヨ …
骨にしむ

海眼淚的 存錢罐
河眼淚的 通路
試著做也栓 誰灑
牢騷和嘆氣
…不哭 不哭 忍耐嗎…
刺激骨


上を向いたら キリがない
下を向いたら アトがない
さじをなげるは まだまだ早い
五分の魂
… 泣いて 泣いて たまるかヨ…
夢がある

如果朝向上面幸運的人不數斷
如果朝向下面繼承的人不在
可是 束手無策 還還早
一寸的蟲有的五分的魂
…不哭 不哭 忍耐嗎…
也有夢




『泣いてたまるか』主題歌 渥美清


行政書士記念日


 本日は、行政書士記念日です。


 昭和26年2月22日、行政書士法が公布されたことから日本行政書士連合会がこの2月22日を記念日に指定して、平成19年からは各種の広報活動を実施しています。
 なお、記念日に数字の2(ニャン)が連続することから、「貓」をマスコットキャラクターにしています。


 伊賀山人総合事務所は、行政書士の他にファイナンシャルプランナーや宅地建物取引士更にはカウンセラーなどを標榜する総合事務所ですが、行政書士会の理事にも就任していることから書士会の催しにも積極的に参加しています。
 記念日に先立ち、18日の日曜日には、伊賀のスーパーマーケットで広報用のチラシ・ティッシュペーパー・風船などを配ってきました。


 なお、当事務所のキャッチフレーズは、
「世の中大抵のことは、当事務所で片が付きます。」
というものです。
 このため、伊賀山人事務所はDNA鑑定・山林原野の日照調査など、他の行政書士とは異なる業務を多くお受けしており、よろず相談を得意とすることから年間を通じて三重県名張市の無料相談員にも指定されています。


 本日は、記念日と直接の関係はありませんが、名張市の無料相談会に相談員として参加してきました。
 ご相談者のお困りごとは全て相続関係の案件でした。


 相続問題は、一部のお金持ちだけの懸案事項ではありません。
 むしろ、ごく普通の一般庶民で、流動資産である現金・預金が少なく分割の難しい不動産が遺産の大部分を占める場合に相続人の間で利害が対立して問題が発生します。


 「相続」を「争族」にしないための最も有効な手段は、「遺言書」を書いておくことです。
 「遺言書」は、死期が迫った人が自分の心情などを書き残す「遺書」ではありません。
 「遺言書」は、心身ともに元気なうちに主として「遺産の分割」について本人の意思を書き残しておく為のものです。
 相続が発生した時に遺族がこれを読むことにより、親族間で遺産を奪い合うような見苦しい相続問題の発生を防止できるのです。


 「遺言書」の書き方には、法で定められた厳格な形式があります。
 法の建前としては、誰にでも書けるものではありますが、有効で漏れのないものにするには、それなりの専門知識も必要です。
 思い立ったら、伊賀山人又はご近所の遺言相続専門の行政書士に相談されるとよいでしょう。


 遺言書は、「まだ先でも間に合う」と思っている時が書き時なのです。
 その後、書き直しは何度でもできます。
 多少なりとも財産を持つ15歳以上の意思能力のある人であれば、出来るだけ早く「遺言書」をお書きになっておくようお勧めします。
 

伊賀山人闘病記執筆の開始にあたって

 【奈良県立医科大学附属病院】


1 闘病記執筆の趣旨
 2月7日、肝細胞癌の発症を確認し、5年生存率が約50%と診断された。
 未だ余命を確定できる段階ではないが、治療の経過と患者の心境とを記録して、生存の証とするとともに同病者への参考に供する。


2 発症の経緯
 輸血後や注射器の使い回しによりかなりの確率で肝炎を発症することは戦前から知られていた。この原因がウイルスに依るものであることは、1964年にオーストラリア抗原が発見されるまではよくは分かっていなかった。
 戦後、国は厚生行政の一環として、国民に集団予防接種を強制した。無論、肝炎発症の危険性を承知した上でのことであった。
 予防接種に於いては注射器の使い回し、つまり10人分くらいの薬剤を一つの注射器に入れて次々と接種する方法がとられていた。


 このため、注射針に付着した血液を介して多くの国民が肝炎ウィルスに感染したが、その大半は免疫が働き発症しないか発症しても一時的なもので完治した。そのため、多くの国民は予防接種の恩恵に浴したともいえる。
 伊賀山人のように幼少期の免疫力不十分な状態で感染した者だけが持続感染者となり、40歳前後で慢性肝炎を発症することになってしまった。
 この肝炎を完治させる有効な手段はなく、慢性肝炎患者の多くは肝硬変か肝細胞癌へと病態が進行することとなる。
 伊賀山人は、昭和20年代に感染し40年近くを経た平成元年の年末に肝炎を発症した。
 そして、肝炎発症から29年を経た今月発癌を確認した。
  
3 今後の治療方針
 発癌確認までは伊賀の病院で治療を受けていたが、癌治療のために2月20日奈良県立医科大学附属病院へ転院した。
 これは、専門的に癌治療ができる病院は、「がん対策基本法」に基づき設置された「がん診療連携拠点病院」が主体となり、各都道府県に一つか二つしかないことによる。
 伊賀は三重県に属するが、距離の近い奈良県の病院を選択した。


 昨日20日の初診では、血液検査のほか、胸部レントゲンと心電図の検査を実施した。
 それらは、直接の癌検査ではないが、手術に耐えうる体力があるかどうかの検査とのことで、伊賀山人が頼んだわけではないが、既に開腹手術をするのが既定の路線になっているようである。
 事ここに至ると、気分は恰も赤穂浪士の大石内蔵助の心境である。


 「切腹仰せ付けられ候段 有り難き仕合に存じ奉り候」


 この日の受診は、朝の10時から午後2時までかかった。
 病院の食堂で遅い昼食をとった。
 同行した山の神は、「親子丼」を注文した。
 伊賀山人は無論、「カツ丼」を食した。
 武道家伊賀山人は、「神仏を敬い神仏に頼らず」を信条とするので、占いも呪いも信用しないが縁起は担ぐ。
 勝負を前にして食する勝負飯は当然、「カツ丼」に限る。


   「病に勝つ!」





鄧麗君 - 獨上西樓 + 但願人長久