伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

伊賀のグルメ情報

 【我慢強いラーメン屋】


「へい! お待ちっ!」
『あ~ぁっ! オヤジ~ 親指がどんぶりに浸かってるぞ~!』
「な~に、大丈夫! 慣れてるからっ!」




 

 【秘伝の定食屋】


「こちら~ エビフライ定食になりま~す」
『ん~ん、何か変な臭いがするな~ 先月とエビが違うのか?』
「い~え、全く同じで~す。同じ日に仕入れたエビですから~」





 【独り言の多いケーキ屋】


「あ~ 景気が悪い、景気が悪い」


 このケーキ屋、開業後間もなく店を閉めて、入り口に「テナント募集」と書いた紙を貼ったそうです。



 以上、地域振興のためのコマーシャルでした。


 今夜も、お後がよろしいようで…


伊賀の作り話

 昔、昔、伊賀の里に一人の欲張りな忍者が住んでおりました。


 本業だけでは満足せず、何か楽して儲かる副業はないかと、得意の情報網を駆使してググっていたところ、ツルが自分の羽を抜いて機(はた)を織り、高級反物を作るという貴重な情報を手に入れました。


 「しめしめ、これで一儲けできるぞ」と「捕らぬ狸の皮算用」ならぬ「捕らぬツルの羽算用」を決め込んだこの忍者、早速、鳥を捕まえてきて、自分の隣の部屋に放り込み「おい、機を織れ」と言いつけました。
 ところが、機織りの音は聞こえないのに、部屋の中がやたらと騒々しい。
 そこで、覗いてみると荷造りをしておりました。
 ツルではなくペリカンだったのですね~


 また鳥を捕まえてきて部屋に放り込み「おい、機を織れ」と言いつけました。
 ところが、今度は部屋ではなく、その上の屋根の方がめっぽう騒々しい。
 よく見たら、ツルではなくトビだったんですね~


 また鳥を捕まえてきて部屋に放り込み「おい、機を織れ」と言いつけました。
 すると、今度は逆にやたら静かで物音ひとつしません。
 覗いてみると、何と死んでいました。
 ツルではなくガンだったんですね~ 


 また鳥を捕まえてきて部屋に放り込み「おい、機を織れ」と言いつけました。
 今度は、最初こそ機織りの音がしていましたが、やがて静かになりました。
 覗いてみると、家財道具が全て持ち逃げされていました。
 ツルではなくサギだったんですね~


 すっかり腹を立てたこの忍者、今度は2羽まとめて捕まえてきて部屋に放り込み「おい、機を織れ」と言いつけました。
 すると今度は、鳥だけではなく、女房・子供にまで逃げられてしまいました。
 ツルではなく若いツバメとコウノトリだったんですね~


 え~何ですか~?
 ツルとほかの鳥との見分けがつかぬはずがないだろうって?


 実は、この忍者、欲に目がくらんでいたんですね~


 お後がよろしいようで…


漢詩の効用


 昨年晩秋の頃、見知らぬ方から小包が届きました。

 包みを開くと、そこには一瓶の薬草が入っておりました。

 ところが、手紙どころかメモ紙一枚入っておりません。


 はて? 全く記憶にないこの方が一体何のために送ってきたのだろうかと不思議に思いつつ、今一度小包の伝票を確かめてみると、その下の方に上記の漢詩が書きつけられているのを見つけました。


 この詩は、中唐の詩人賈島の「尋隱者不遇」と題する五言絶句です。

 この詩の二十文字だけで、私は、ほぼ、事情を察することができました。


 隱者を尋ねて遇わず  賈島


 松下、童子に問えば

 言う、師は薬を採り去る

 只此の山中に在らんも

 雲深うして処を知らずと


 この詩の、大まかな意味は、賈島が山中に隠棲する友人を訪ねてみたが不在であった。友人が雇っている少年に松の木の下で聞いてみたところ、「先生は薬草を採りに行きました。此の山の中にいるようですが、雲霧が深くて所在はいつものように分かりません。」と答えたという、呑気な隠者とそれに仕える少年とのユーモラスな情景を詠んだものです。


 私は、薬草の真の送り主は小包の差出し人としては書かれていない「師」であり、郵便局から発送したのは、この「師」に仕える「童子」なのだろうと直感的に理解しました。

 また、漢詩をメッセージとして使ったのは、知識人の洒落ではないかとも思われました。そう考えると、思い当たる節もありました。


 数日後に分かったことですが、この小包の真の送り主は、旧知のJ女史でした。私の持病に効くという薬草を自ら採取・調合して送ってくれたものでした。J女史にはこの時、自ら発送できない事情が有って、友人のY先生に依頼して発送したのだそうですが、手紙を入れるのを忘れたのだそうです。


 郵便局の窓口で、それに気づいたY先生が、何の説明も書いていなければ、さぞかし私が不審に思うだろうと考えて、既に計量秤の上に載っている包みの片隅に取りあえずの処置として、この詩を走り書きしたのであります。


 時間があれば、細かい説明も書けるでしょう。しかしながら、既に窓口に包みを出している状態で、瞬時に自らを「童子」に擬して、この詩を書けるその教養レベルには感嘆しました。


 わざわざ、こんな遠回しなことを書かなくても、もっと分かりやすく簡単に書けるだろうとお考えの方もあるでしょう。


 Y先生は日本人ではありません。某国の天文学者なのだそうです。知識人ではあっても、日本語を必ずしも得意とはしていないY先生が、時間に制約のある中、思い浮かぶ漢詩を咄嗟に共通言語として使ったのは、ある意味当然のことでしょう。


 和文には和文ならではの良さがあります。一方、漢文には漢文の良さもあります。


 「漢字」は「感じ」なり。見ただけで凡その意味が通じます。

 更に漢詩であれば、僅か二十文字程度の漢字の中に言外の意味をも込めることができます。


 およそ漢詩・漢文など見向きもされぬ昨今においても、漢字文化圏の共通言語としての効用もあるのだと改めて感じた伊賀山中、晩秋の一日でした。