伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

伊賀上野に現存する城は「上野城」ではない。


 伊賀上野に現在3層3階の天守閣が存在します。この城の正式名称は「上野城」ではなく「伊賀文化産業城」です。


 伊賀は古来、東西の交通の要衝であったため、戦国時代から砦のようなものが何度も作られており、最大のものでは3層3階まであったようです。


 関ヶ原の合戦の後、天下を取った徳川家康は、未だ健在であった豊臣方を攻撃するための前哨陣地とすべく、藤堂高虎に命じて伊賀上野に大阪城や名古屋城と同規模の5層5階の天守閣の建築を始めました。完成間近の慶長17年(1612年)9月、折からの暴風雨により天守閣は倒壊してしまいます。その2年後、大坂の陣により豊臣氏が滅亡したことにより伊賀上野の城は不要となったため、天守閣は再建されずそのまま明治維新を迎えます。


 昭和7年(1932年、)当時の衆議院議員であった伊賀上野出身の川崎克(かつ)が伊賀の文化産業の振興のため、私財を投じて天守を建築しました。この時の資金集めのため、川崎は所有する骨董や自ら揮ごうした書画を売却し、更には支援者から本人の銅像建立の話を断ってその代金をも建築費に投入したそうですが、資金が5層5階を建設するまでには至らず、やむなく3層3階の天守を建設することになりました。


 昭和10年(1935年)に完成した城は、外観、構造、形状、寸法ともに歴史的考証は経ていないため、「上野城」と称することは憚られたこともありますが、「攻防策戦の城は滅ぶ時あるも、文化産業の城は人類生活のあらん限り不滅である。」とする川崎克の理想を具現するために「伊賀文化産業城」と命名されて現在に至っております。


 なお、昭和の時代に厚生労働大臣などを歴任した川崎秀二は克の二男です。平成になって、運輸大臣や厚生労働大臣などを歴任している現衆議院議員川崎二郎は克の孫です。小職、徒然なるままに衆議院選挙に打って出ようかと思いましたが、世襲3代の伊賀からは無理なようです。


不動産の所有権登記名義人住所変更登記について

 自己管理不動産の名義人住所がしばしば変更になっているにもかかわらず、住所変更登記が延び延びになっていたので、一念発起して変更登記を申請しました。
 伊賀市の物件については、収入印紙を本来は申請書の別紙に貼付すべきところを申請書の上部(法務局の合議欄?)に張り付けてしまいましたが、そのまま受理されて3日ほどで、「登記完了証」の交付を受けて大過なく終了しました。
 高崎市の物件については、郵送申請しましたが、返信用封筒を同封しなかったので、「登記完了証」を受領できませんでした。全部事項証明書なら伊賀支局でも入手できるので、近日中に取りに行こうかと考えています。


伊賀の昔話


 昔、伊賀の里に一人の忍者が住んでおりました。
 ある吹雪の夜、伊賀山中での修行の帰り道で傷ついて弱っている一羽のツルを助けてやりました。
 翌朝、雪も止んだ頃、忍者の隠れ家に若くて美しい娘がやってきて「お嫁さんにしてください。」と言いました。独り者の忍者は、快く娘を中に入れてやりました。
 娘は、「私がよいと言うまで決して中を覗かないでくださいね。」と言い残して、隣の部屋にこもり、機を織り始めました。
 トントンカラリ、トンカラリ・・トントンカラリ、トンカラリ・・・と、機織りの音は三日三晩続きました。四日目の朝、音はピタッと止みましたが、娘との約束通り、忍者は決して中を覗こうとはしませんでした。
 五日たち、六日たち、一週間を過ぎるころには、さすがに忍者も心配になり、襖の敷居に竹筒の水を垂らして音のせぬようにして、そっと隙間を開けて中を覗いてみました。するとそこには娘の姿はなく、それどころかタンスや長持ち、先祖伝来の鎧兜や槍刀、唯一の道楽で長年集めてきた書画、骨董に至るまで部屋中の一切合財の調度品が消え失せていました。
 忍者は、びっくり仰天して叫びました。
 「しまった~!! あいつはツルじゃ~なかった! サギだったんだ~!!!」

浜の真砂は尽きるとも、世に詐欺人の種は尽きないようです。各位、ご用心ください。