伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

弁天さまについて

 【恵那峡(大井ダムの湖沿いの渓谷)さざなみ公園・弁天島 に祀られている弁財天】


 今回は、水の神として港湾や河川、湖などの近傍の寺院や神社に祀られていることで、日本でもよく知られている弁天さまについてご紹介します。



 【水と芸術・学問などの知を司るヒンズー教の女神サラスヴァティー】


 弁天さまの本地(本来の姿。本体。)は、インドのヒンズー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvati)です。
 Sarasvatiとは「水を持つ者」の意で、この女神は元々は聖なる川の化身として水を司る女神でした。
 その後、「流れる川」が転じて、水のように湧き出て流れるもの全て(音楽、言葉、学問、智慧など)を司る女神となりました。


 時は下って、釈迦が仏教を興したときに、どういう訳かサラスヴァティーは仏教とその信者の守護神として「天部(てんぶ)」に任命されました。
 天部とは、仏教において天界に住む者の総称で、インドの古来の神が仏教に取り入れられて護法神となったものです。
 こうして、本来は水の女神であったサラスヴァティーは、音楽や学問などの文科系を担当する傍ら、武器を持って仏教を守護するために戦う武道系を併せて担当する文武両道の神様になったのであります。


 このサラスヴァティーが、仏教典に登場するのは、5世紀に漢訳された『金光明経』が初出で、この経典ではサラスヴァティーの名を「辯才天(弁舌の才能を持つ天部の神)」と翻訳表記しています。
 日本には、古墳時代の末期6世紀ごろに仏教伝来とともに「辯才天」の名が伝わっていますが、その後、音が同じであることから「辨財天(財宝を分ち与える天部の神)」とも表記されるようになりました。
 つまり、日本では文武両道に加えて財産管理も担当する、実に忙しい女神さまになったのであります。

 筆者注:

 「弁」と「辯」と「辨」とはそれぞれ意味の異なる漢字ですが、戦後の当用漢字制度により全て「弁」(原義は「冠」)と表記するようになったことで、本来「冠」とは関係のない「辯才天」「辨財天」を現在では「弁才天」「弁財天」と表記しているため意味が分かりにくくなっています。

 また、「天部」とは、元々釈迦の弟子ではないことから仏教の信仰・造像の対象となっている「仏」の4つのグループの格付けとしては最下位で、「如来部」「菩薩部」「明王部」の次が「天部」となっています。
 しかしながら、もとを糺せば由緒正しい歴とした神様であることから、神社仏閣に於いて如来・菩薩の脇侍として脇役を努めるだけでなく、本尊として祀られることも多々あります。
 弁財天を始め、梵天、帝釈天、吉祥天、鬼子母神、大黒天、四天王などがその一例です。
 更に、「天部」の神々は仏教の守護神として寺院に祀られることもあれば、本地垂迹説(日本の神々は仏教の諸佛菩薩などが姿を変えて現れたものとする思想)に基づき、宗教の枠を超えて神社に祀られることもあるのが特徴です。
 明治以降には神仏分離もありましたが、今でも弁天さまは、寺院にも神社にも祀られています。
 なお、神社の場合には、全国各地に「弁天神社」と称する神社が数多くありますが、他にも日本古来の水の女神である市杵嶋姫命(いちきしまひめ)を弁天様の化身として祀っているところも少なくありません。


 サラスヴァティーの像形は、4本の腕を持ち、2本の腕には数珠とヴェーダ(宗教文書)、もう1組の腕にヴィーナと呼ばれる現在のインドのシタールに似た弦楽器を持っているのが特徴です。


 弁天さまも基本的にはサラスヴァティーと同じ像形ですが、日本で独自に進化したため、腕は4本ではなく、2本の2臂像と8本もある8臂像とに分かれています。
 2臂像は、弦楽器を持つ文科系の姿ですが、楽器は日本ではヴィーナが手に入らなかったためか、殆どが琵琶を持っています。こちらは「辯才天」と表記されていることが多いようです。
 8臂像は、刀や弓などの武器を持つ武道系の姿で、仏教の守護神の立場を表わしています。こちらは「辨財天」の表記が多いようです。


 次にそれぞれの像形の一例を画像でお示しします。


 【2臂像の例:辯才天(妙音天)坐像 岩手県盛岡市 松園寺】
 この像形は、比較的、本来のサラスヴァティーに近い姿で、弁天さまの多くはこの姿です。
 なお、この弦楽器を持つ像形の場合には、「妙音天」或いは「美音天」の別名で呼ばれることもあります。



 【8臂像の例:井之頭辨財天尊 東京都三鷹市井の頭 明静山圓光院大盛寺】
 この像形は、武器を手にして仏教の守護神の役割を強調した姿ですが、日本ではそれほど多くは作られていません。
 なお、この井之頭の辨財天尊(「尊」は尊称)は秘仏であり、開帳されるのは12年に1度の巳年(水の神の年)だけなので、日本人でも実物を見た人は殆どいません。


 最後に弁天さまが祀られている寺院と神社の一例をお示しします。


 【井の頭公園内にある井之頭辨財天尊の堂宇】
 弁天さまが祀られている寺院の一つです。



 【北海道東部の厚岸郡厚岸町にある厚岸湖上の弁天神社】
 弁天さまが祀られている弁天神社の一つです。

川の流れのように(鄧麗君版)

 【台灣新竹縣關西鎭を流れる牛欄河と、親水公園に架かる1927年に造られた東安古橋】


 「川の流れのように」は、日本の歌手美空 ひばり(みそら ひばり、1937年(昭和12年)5月29日 - 1989年(平成元年)6月24日)が1988年12月に発売したアルバム『川の流れのように〜不死鳥パートII』に収録されているこのアルバムを代表する表題曲です。
 この楽曲は、翌1989年1月11日にシングルカットして発売されましたが、その5箇月後に美空ひばりが急逝したため、彼女の生前最後のシングル作品となりました。


 美空ひばりは生前、この楽曲について自分の人生と重ね合わせて、次のように語っています。 

 1滴の雨が木の根を伝い、せせらぎが小川になる。

 水の流れがあっちにぶつかり、こっちに突き当たりしながらだんだん大きくなる。

 やがて大河になり、ゆっくりと海にたどり着く。


 作詞は秋元康(あきもと やすし、1958年5月2日 - )、作曲は見岳章(みたけ あきら、1956年11月11日 - )、美空ひばりにとっては小椋佳が作詞・作曲した「愛燦燦」と並び称される自身の代表曲、数多くの歌手がカバーしていますが、今回は東洋の歌姫こと鄧麗君(1953年1月29日 - 1995年5月8日)の演唱でご紹介します。




鄧麗君: 川の流れのように (川流不息) 中文版歌詞-有押韻



 川流不息 
         
(第壹節)
 不知不覺 走到了這裡
 細細長長的這條路
 如果 回過頭的話
 看得到遙遠的故鄉
 崎嶇不平的道路 彎彎曲曲的道路
 沒有地圖的指引 這就是人生


 啊~ 像河川一樣的流著
 緩緩流著
 經歷無數個時代
 啊~ 像河川一樣的流著
 毫不停止地
 只剩下晚霞遍染的天空


(第貳節)
 生命就如同旅行
 在這個沒有終點的道路上
 與相愛的人 攜手為伴
 共同尋找夢想
 就算下雨溼透了道路
 也總有放晴的一天 


 啊~ 像河川一樣的流著
 安詳平穩地
 讓人想寄身其中
 啊~ 像河川一樣的流著
 四季的推移
 靜待雪融化的季節


(附節)
 啊~ 像河川一樣的流著
 安詳平穩地
 讓人想寄身其中
 啊~ 像河川一樣的流著
 無時無刻
 只聽到青綠的細流聲



 おまけ【二胡演奏版(張濱二胡演奏団)】↓

川の流れのように



 秋夜伊賀城聞胡琴  秋夜伊賀城に胡琴を聞く
                   伊賀山人作 七言古詩平水韻下平聲八庚
 誰家玉琴暗飛聲,  誰が家の玉琴ぞ 暗に聲を飛ばす,
 散入秋風滿伊城。  
散じて秋風に入り 伊城に滿つ。
 此夜曲中聞川流,  
此の夜 曲中に 川流を聞く,
 何人不起故園情。  
何人か 故園の情を 起こさざらん。  



 美空ひばりの原唱版はこちら↓