伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

翼をください(給我一對翅膀)


 「翼をください」(つばさをください)は、日本のフォークグループの「赤い鳥」(1969年 - 1974年)が1970年に演唱し、翌1971年にシングルレコードとして発表した楽曲で、作詞は山上路夫(やまがみ みちお、1936年8月2日 - 、作曲は村井邦彦(むらい くにひこ、1945年3月4日 - )が担当しています。蛇足ながら、この二人は「赤い鳥」のメンバーではなく作詞・作曲の専門家です。


 この曲は、1970年11月に三重県志摩郡浜島町(現:志摩市)にある総合リゾート施設「合歓の郷」(ねむのさと)で開かれた、ヤマハ音楽振興会が主催するプロ作曲家の音楽コンテスト「合歓(ねむ)ポピュラーフェスティバル'70」(後の「ポプコン」)のために作られたものです。


 この楽曲を「赤い鳥」が公の場で演唱したのはこの音楽コンテストの時が初めてで、作曲家の村井邦彦は「川上賞」(ヤマハ音楽振興会創設者の川上 源一の名を冠した賞)を受賞し、「赤い鳥」は歌手部門で「新人奨励賞」を受賞しています。


 歌詞の内容は、「翼を付けて悲しみの無い大空へ飛んで行きたい。」と詠ずるもので、ある意味現実逃避を表現しています。
 これは、1970年代の安保闘争や学園紛争に揺れた時代背景から生ずる若者の憂愁や厭世観をヒューマニズムを詠ずることを得意とする当時34歳になったばかりの作詞家の山上路夫が夢想的かつ象徴的に表現したものです。
 後に山上自身は、『作詞の時間が限られた苦しい状況の中で願いと祈りを込めた歌詞が生まれた』、『この歌詞には小児ぜんそくのため小学校にあまり通えなかった自分の過去の苦しみも含まれていたのかもしれない』と語っています。


 この曲は元々作曲コンクールの為に作られたことから、「赤い鳥」としてはあまり重要な楽曲とは見做していなかったようで、翌1971年2月5日 にシングルレコードとして発表した時には、「竹田の子守唄」のB面曲として収録しています。


 歌詞の内容がメルヘンチックではあるものの決して明るいものではないことから、発表時にもそれほどヒットはしていませんが、その後徐々に人気が高まり、寧ろ1974年に「赤い鳥」が解散してからの方が評価が上がって、学校の音楽の教科書に採用されて教育の場でも使われるなど、既に解散している「赤い鳥」の代表曲となりました。
 なお、この楽曲が音楽教科書に採用されたのは、1970年代後半に教科書出版社の一つである教育芸術社の橋本 祥路(はしもと しょうじ、1948年1月13日 - )が、当時合唱曲としてはクラッシックが殆どであった教科書を「皆が歌えて、楽しめる合唱曲集」にしようと考えて、フォークソングの中から曲調がよく、歌詞も見方によっては大空をイメージして将来への希望を詠じていると解せないこともないことから、この楽曲を選定したことによります。


 この楽曲には、編曲はフォーク調からロック調、歌詞も一部省略したものから逆に繰り返しを増やしたものなど様々なバージョンが存在します。


 今回は、伊賀山人が某大4学年であった1972年(昭和47年)に、某大開校祭前夜祭に招待した当時まだ期待の新人グループであった「赤い鳥」が演唱したのと同じライブバージョンでご紹介します。


 この開校祭前夜祭には、伊賀山人は空手の模範演武で参加しましたので、リハーサルから本番まで「赤い鳥」と行動を共にしていました。
 それまで開校祭に招いた歌手は、リハーサルでは鼻歌に併せて楽器の音合わせをするだけで真面目に歌う人はまずいませんでしたが、このグループに限っては、リハーサルでも全員でフルコーラスを歌っている真摯な姿が印象的でした。
 また、リハーサル時の服装は普段着のジーンズにジャケット姿でしたが、リハーサル後ステージ衣装に着替えてくるとのことで楽屋に下がりました。
 所詮はフォークグループですので、それほど煌びやかな衣裳ではあるまいと思っていましたが、再び現れた彼らの姿を見て驚きました。
 確かに着替えてはいますが、リハーサルの時と大差ない普段着のジーンズにジャケット姿でした。
 新調した普段着なのか、それとも何かのブランド物なのか、いづれにしても観客席から見てもその違いは分かりません。
 本番を迎えるにあたって、先ずは形を整えて精神を集中するというプロ意識の現れであったように、半世紀近くを経た今になって思っています。



 翼をください
 給我一對翅膀
               作詞:山上路夫 作曲:村井邦彥 演唱:赤い鳥


いま私(わたし)の願(ねが)いごとが
かなうならば    翼(つばさ)がほしい
この背中(せなか)に    鳥(とり)のように
白(しろ)い翼(つばさ)つけてください

如果我的心願能夠實現
希望上天給我一對翅膀
就像鳥兒一樣在我背上
讓我有一對雪白的翅膀


この大空(おおぞら)に    翼(つばさ)をひろげ
飛(と)んで行(ゆ)きたいよ
悲(かな)しみのない    自由(じゆう)な空(そら)へ
翼(つばさ)はためかせ    行(ゆ)きたい

好想在這片廣闊天空之上
盡情展翅飛翔
向著沒有悲傷的自由天空
讓風托起翅膀  飛向遠方


<間奏>


いま富(とみ)とか名譽(めいよ)ならば
いらないけど    翼(つばさ)がほしい
子供(こども)の時(とき)    夢見(ゆめみ)たこと
今(いま)も同(おな)じ    夢(ゆめ)に見(み)ている

與其給我財富或者名氣
寧願上天給我一對翅膀
小時候曾經做過的夢想
如今還在我的心上


この大空(おおぞら)に    翼(つばさ)をひろげ
飛(と)んで行(ゆ)きたいよ
悲(かな)しみのない    自由(じゆう)な空(そら)へ
翼(つばさ)はためかせ…

好想在這片廣闊天空之上
盡情展翅飛翔
向著沒有悲傷的自由天空
讓風托起翅膀…
 


この大空(おおぞら)に    翼(つばさ)をひろげ
飛(と)んで行(ゆ)きたいよ
悲(かな)しみのない    自由(じゆう)な空(そら)へ
翼(つばさ)はためかせ…

好想在這片廣闊天空之上
盡情展翅飛翔
向著沒有悲傷的自由天空
讓風托起翅膀…
 


この大空(おおぞら)に    翼(つばさ)をひろげ
飛(と)んで行(ゆ)きたいよ
悲(かな)しみのない    自由(じゆう)な空(そら)へ
翼(つばさ)はためかせ    行(ゆ)きたい~

好想在這片廣闊天空之上
盡情展翅飛翔
向著沒有悲傷的自由天空
讓風托起翅膀  飛向遠方~




赤い鳥 翼を下さい(ライヴ)



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蒹葭(けんか:詩經-風-秦風)


 「蒹葭(けんか)」は、支那最古の詩集である「詩経」に収録されている詩の一つです。


 「詩経」は、紀元前11世紀から紀元前7世紀にかけての詩を収めたもので、伝承によれば,孔子(こうし、紀元前552年9月28日‐紀元前479年3月9日)が門人の教育のために、当初3000篇あった膨大な詩篇を311篇(うち6篇は題名のみ現存)に編成しなおしたとされています。


 「詩経」は、周代(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)前半の詩を集めて作られたため「周詩」とも呼ばれていますが、元々は舞踊や楽曲を伴う歌謡であったと言われています。
 その構成は、黄河流域各地の民謡を収めた「風(ふう)」と、周の朝廷の宴会で歌われた「雅(が)」と、祖先の廟前で奏せられた「頌(しょう)」の三つに大別されます。
 「風」は、更に国や地域ごとに15の「国風」に区分されています。


 「蒹葭(けんか)」は、「国風」の一つで「秦(支那統一以前の『先秦』)」の小唄や民謡を収めた「秦風」の中の一詩です。

 筆者注:

 「蒹葭」とはオギとアシの意で、共に水辺に生える草で、その形はススキによく似ています。

 「蒹」がオギのことで、草丈は1~2.5m程で茅葺き屋根の材料になる草です。

 「葭」はアシのことで、草丈は2~6mに達して茎は竹のように硬くなるのでスダレやヨシズの材料になる草です。


 この詩の内容は、表面的には会いたくても会えない「伊人(この人)」への尽きせぬ思慕の情を詠じたものです。
 「伊人(この人)」が具体的に何を指すのかについては「詩経」に説明はなく、古来様々な解釈がなされています。
 単純に「恋人」とする説、世俗を離れて隠棲した「賢者」とする説、秦が宗主国の周から賜った領土に取り残された周人の周の盛時への懐いを象徴しているとする説などがあります。
 また或いは水難で世を去った人とも解釈できる含蓄のある深遠な詩になっています。


 なお、古注によれば、この詩は比喩であり、宗主国周王朝の礼法にしたがえと、当時周の属国のような立場にあった秦の国主㐮公を諌める歌であるとされています。この場合においては、詩の内容は、川の流れ(礼法の比喩)に逆らえば「伊人」に会うことはできないが、川の流れに従えば会うことができると解釈することになります。


 今回は、日本がまだ縄文時代であった3000年近くも前に作られたこの詩に曲を付けて演唱しているものをご紹介します。
 作曲は黒竜江省出身の音楽家「Winky詩(1991年1月ー)」、古箏(こそう、グーチェン:琴のような楽器)の演奏と演唱は台灣の懷舊配音聯盟所属の女歌手「天涯初霽(てんがいしょせい)」です。


(白文)
 蒹葭


蒹葭蒼蒼,白露為霜。
所謂伊人,在水一方。
溯洄從之,道阻且長。
溯游從之,宛在水中央。


蒹葭萋萋,白露未晞。
所謂伊人,在水之湄。
溯洄從之,道阻且躋。
溯游從之,宛在水中坻。


蒹葭采采,白露未已。
所謂伊人,在水之涘。
溯洄從之,道阻且右。
溯游從之,宛在水中沚。


(訓読文)
 蒹葭(けんか)


兼葭(けんか)蒼蒼(そうそう)たり 白露(はくろ)霜(しも)と為(な)る
所謂(いはゆる)伊(こ)の人 水(みづ)の一方に在り
溯洄(そくゎい)して之に從はんとすれば 道(みち)阻(そ)にして且つ長し
溯游(そいう)して之に從へば 宛(ゑん)として水の中央(ちゅうあう)に在り


兼葭萋萋(せいせい)たり 白露未だ晞(かは)かず
所謂伊の人 水の畔(ほとり)に在り
溯洄して之に從はんとすれば 道阻にして且つ躋(のぼ)る
溯游して之に從へば 宛として水の中坻(ちゅうち)に在り


兼葭采采(さいさい)たり 白露未だ已(や)まず
所謂伊の人 水の畔(ほとり)に在り
溯洄して之に從はんとすれば 道阻にして且つ右(みぎ)す
溯游して之に從へば 宛として水の中沚(ちゅうし)に在り


(口語訳)
 水辺の草


水辺の草は青々と茂り 白い露は霜となる
我が思うこの人は 川の向こうに居る
川を遡って行こうとすれば 道は険しくかつ遠い
流れに随って渉って行けば あたかも川の中央にあるように面影が浮かぶだけ


水辺の草は寒々と茂り 白い露はまだ乾かない
我が思うこの人は 川のほとりに居る
川を遡って行こうとすれば 道は険しくかつ急峻である
流れに随って渉って行けば あたかも川の中州にあるように面影が浮かぶだけ


水辺の草は盛んに茂り 白い露はまだ降りやまない
我が思うこの人は 川の岸辺に居る
川を遡って行こうとすれば 道は険しくかつ遠くへ廻っている
流れに随って渉って行けば あたかも川の中州のほとりにあるように面影が浮かぶだけ




蒹葭 By 天涯初霽 / Winky詩(所謂伊人,在水一方)


 追記:

 1975年に公開された台灣映画「在水一方」の主題歌として、台灣の女歌手の江蕾(コウ ライ 1952年-)が演唱している同名の楽曲は、この「蒹葭」の詩を翻案した純粋な恋歌です。