伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

昴 -すばる-

 【昴:プレアデス星団】


 『昴 -すばる-』は、日本のシンガーソングライター谷村新司(たにむら しんじ、1948年12月11日 - )が、1980年4月1日に発表した楽曲で、今でも谷村のコンサートでは必ず歌われる代表曲の一つです。
 「昴」の直接の意味は、おうし座にあるプレアデス星団のことで、この星団は肉眼でも見ることが出来ます。


 この曲は、谷村がフォークグループのアリスのリーダーを務めていたころの1980年に、グループと並行して始めたソロ活動の一環として制作された曲です。


 谷村の自著『谷村新司の不思議すぎる話』(2014年1月30日刊、マガジンハウス)によると、この楽曲の歌詞は、引っ越しのため荷作りをしていた谷村が床に寝そべりながらダンボール箱に思い付いたことを書いて出来たものだそうです。
 また、後に谷村は、この歌詞のキーワードである「さらば昴よ」は、プレアデス星団が自分だけに告げた句で20年間その意味は分からなかったが、「物を中心に据えた価値観に別れを告げるという意味だった」と解して納得したと冗談めかして述べるなど、甚だ不可思議な歌詞です。


 その為、人それぞれに様々な解釈が成り立ちますが、伊賀山人の解釈としては、これは多分、明治の歌人 石川啄木(いしかわ たくぼく、1886年(明治19年)2月20日 - 1912年(明治45年)4月13日)の心境を詠じたものだろうと考えています。


 石川啄木の死後出版された第二歌集『悲しき玩具』には、次の二首が収められています。

   「悲しき玩具」から抜粋


    呼吸(いき)すれば、

    胸の中(うち)にて鳴る音あり。

    凩(こがらし)よりもさびしきその音!


    眼閉づれど、

    心にうかぶ何もなし。

    さびしくも、また、眼をあけるかな。


 谷村の「昴」は、この石川の詩想を踏まえたものとみて間違いないでしょう。


 また、石川は1909年から1913年まで刊行されたロマン主義的な文芸雑誌『スバル』の創刊号から約1年間、同誌の発行名義人を務めています。


 石川は、その時期に『赤痢』『足跡(その一)』などの小説も発表しましたが、詩歌とは勝手が違って、それらの多くは評判があまり芳しくなく、失意のうちに「スバル」を去っています。
 その後、程なくして肺結核を患い、2年後には世を去っています。


 谷村本人が、そのことを意識していたかどうかは判然としませんが、石川の故事を顧みると、谷村の歌は「スバル」に別れを告げた石川が、結核の為「青白き頬のままで」新天地を求めて旅立つ姿を詠じたものと伊賀山人は考えています。


 旅立ちの留別を勇壮に歌い上げた谷村新司の代表曲ですが、今回は、美空ひばりの演唱でご紹介します。
 動画は、1986年3月9日中野サンプラザで行われた、美空ひばりの歌手生活40周年記念リサイタルで収録されたものです。



 昴
            作詞・作曲:谷村新司 演唱:美空ひばり
目を閉じて 何も見えず 哀しくて目を開ければ
荒野に向かう道より 他に見えるものはなし
ああ 砕け散る宿命(さだめ)の星たちよ
せめて密やかに この身を照らせよ
我は行く 蒼白き頬のままで
我は行く さらば昴よ


呼吸(いき)をすれば胸の中 凩(こがらし)は吠(な)き続ける
されど我が胸は熱く 夢を追い続けるなり
ああ さんざめく 名もなき星たちよ
せめて鮮やかに その身を終われよ
我も行く 心の命ずるままに
我も行く さらば昴よ


ああ いつの日か誰かがこの道を
ああ いつの日か誰かがこの道を
我は行く 蒼白き頬のままで
我は行く さらば昴よ
我は行く さらば昴よ ...



 昂宿星團
            作詞・作曲:谷村新司 演唱:美空雲雀
閉上雙眼 什麼都看不見  如果睜開悲傷的雙眼
除了前面荒野的道路  什麼都看不到
啊 命運破碎離散的星兒啊
至少寂靜悄悄地 照耀我身啊
我將獨行遠去上 掛著依舊倉白的臉頰
我將獨行遠去 再見吧 昴星啊


雖然吸著氣 刺骨寒風  在心中悲鳴不已
但是我心中充滿熱情  繼續追逐夢想 使其美夢成真
啊 閃閃爍爍 無名之星群啊
至少也要光彩亮麗的 結束這一生吧
我將獨行遠去 隨心所欲(了無羈絆)
我將獨行遠去 再會吧 昴星啊


啊 不知道哪一天 誰會來走這條道路
啊 不知道哪一天 誰會來走這條道路
我將獨行遠去 掛著依舊倉白的臉頰
我將獨行遠去  再見了  昴星啊
我將獨行遠去  再見了  昴星啊…




美空ひばり - 昴(すばる) LIVE (中/日歌詞字幕)

唐詩「春曉(しゅんぎょう)」の音読み



 春曉

           盛唐 孟浩然

 春眠不覺曉,

 處處聞啼鳥。

 夜來風雨聲,

 花落知多少。


 「春曉」とは、盛唐の詩人孟浩然(もう こうねん/もう こうぜん、モン ハオラン、689年 - 740年)作の五言絶句で近体詩に分類されるものです。


 近体詩とは、漢詩の中でも唐代に完成した詩形で、一首の中の句数や一句の中の漢字数とその平仄(声調:アクセント)の配置や韻の踏み方など、厳格な決まりごとのある「定型詩」です。


 このような定型を守ることにより、唐代の都長安の発音で読んだ時に歌うがごとき心地よいリズムと響きになるのです。


 また、近体詩以外の古体詩や近代詩以降の新体詩に分類される漢詩でも、平仄にはさほど厳密な定型は有りませんが、押韻だけは付けられていて、最小限のリズムと響きは得られるようになっています。


 ところが、日本では古来、近体詩に限らず全ての漢詩を定型詩として読んでいるわけではありません。
 次のように訓読して非定型詩として読んでいます。

 春曉(しゅんぎょう)

春眠 曉(あかつき)を覺(おぼ)えず,

處處(しょしょ)に 啼鳥(ていちょう)を聞く。

夜來(やらい) 風雨の聲(こえ),

花 落つること 知んぬ多少ぞ。


 実は、このことが、漢詩が現代まで日本人に普及している一因ともなっています。
 つまり、日本に漢詩が伝わった奈良時代頃(諸説あり)には、既に五七調を基準とする定型詩である和歌が、知識人の教養として存在していたのです。
 そのような時に、漢詩が古代の知識人に普及したのは、漢詩を訓読した非定型詩が初めての経験であり珍しかったことと、更には漢語を使うことにより和語(やまとことば)を使う和歌では表せない包括概念や抽象概念を表現することが出来たことが原因の一つと考えられています。

 筆者注:

 漢字が日本に伝来した古墳時代の末期には、日本語は未だ発展途上で、包括概念や抽象概念を表わす和語は殆どありませんでした。

 例えば、「はる、なつ、あき、ふゆ」という和語はありましたがそれらを包括する「季節、四季」という和語はなく、また、「はれ、くもり、あめ」という和語はありましたが抽象概念としての「天気、天候」という和語はありませんでした。

 これら和語では表せない漢語が伝わった時に、これを和語に翻訳することなく音読みのままで日本語に導入して現在に至っています。

 なお、明治になって欧米から伝来した外来語については日本語に翻訳しましたが、その際は和語ではなく「哲学、人権」などのように音読みの漢語の形式に翻訳しています。

 現在、日本語となっている単漢字或いは熟語で、音読みのみで訓読みが存在しないものについては、元を糺せば支那や欧米からの外来語が殆どです。


 漢詩の訓読も、これはこれで、格調高い響きがありますが、本来の定型詩の響きではありません。


 今回は、この「春曉」が約1300年前にはどのような響きであったのかを、音読みで研究してみました。


 日本語の音読みにはいくつかの種類がありますが、大別して「漢音」と「呉音」の2種類が最も多く使われています。
 「漢」とか「呉」とかの頭字は、王朝名とは関係ありません。
 「漢音」とは唐代の都長安(現:西安)で使われていた漢字音を7~8世紀ごろ日本から支那へ留学していた仏教僧が持ち帰って広めた読み方です。
 「呉音」とはそれよりも前の六朝時代の都建康(現:南京)付近で使われていた漢字音で、6世紀ごろから仏教の伝来と共に、朝鮮経由で経文の読み方として伝わっていたものです。
 「漢音」は短期間でまとめて導入されたため体系的で理路整然とした読み方です。
 これに比べ「呉音」の方は、100年以上の長期に亘り断続的にしかも支那から直接ではなく朝鮮を経由して導入されたため、読み方に一貫性を欠いており、古代の漢字音をどれほど正確に伝えているのか疑問が残る読み方です。


 現在では、漢文・漢詩は「漢音」、仏教典は「呉音」で読む慣わしとなっています。
 なお、これには例外も少なからずあり、例えば「孟浩然」は、漢音では「もうこうぜん」ですが、多くのテキストで慣習的に呉音を使って「もうこうねん」と読まれています。


 漢詩も「漢音」で読むと、平仄のアクセントは付いていませんが比較的唐代の音に近くなります。もっとも、この際は古代の読み方「歴史的仮名遣ひ」の漢字版である「字音仮名遣ひ」というもので読む方がより正確になります。
 また、漢字は支那諸語では一字が一音節でそれぞれの読む時間は同じですので、例えば、「花落知多少」は、「か らく ち た しょう」ではなく、「か~ らく ち~ た~ しょう」、これを更に字音仮名遣ひを用いて「くゎ~ らく ち~ た~ せう」と読むほうがより原音に近くなります。
 これは、漢文で出来ている仏教の経典を呉音で読む場合でも同じで、例えば「観自在菩薩」であれば、「かん じ ざい ぼ さつ」ではなく、漢字一文字毎の発声時間が同じになるように「かん じ~ ざい ぼ~ さつ」と読み慣わしています。


 この方法で、「字音仮名遣ひ」を用いて音読みすると、「春曉」は次のようになります。


  春   曉 

  しゅん げう        

春   眠   不  覺  曉,

しゅん みん  ぶ~ かく げう

處   處   聞  啼  鳥。

しょ~ しょ~ ぶん てい てう

夜   來   風  雨  聲,

や~  らい  ふう う~ しゃう

花   落   知  多  少。

くゎ~ らく  ち~ た~ せう


 この音読みでも、1句・2句・4句の末語の「曉・鳥・少(げう・てう・せう)」は、「~eu」で韻を踏んでいることが分かります。

 筆者注:

 この「曉・鳥・少」の漢字は、唐代の長安音では尻上がりに発音する上聲(じょうしょう)という声調の漢字の中の「十七篠(せう)」という韻目のグループに属する韻字です。

 果してこれが1300年前の読みに近いのかどうかを検証するため、「現代台湾華語」と「唐代長安音(推定)」による朗読とを比較してみました。
 なお、「唐代長安音(推定)」は、大島正二著『唐代の人は漢詩をどう詠んだか』(岩波書店)に基づいています。


 【現代台湾華語による「春曉」の朗読】

Elpis Socks 台湾中国語・漢詩朗読 【春暁】孟浩然 【メンズ・レディースソックスならエルピスソックス】



 【唐代長安音(推定)による「春曉」の朗読】

孟浩然「春暁」 唐代長安音(推定)


 検証結果、日本語の音読みでも漢音の「字音仮名遣ひ」であれば、1300年前の長安音の雰囲気が相当良く出ていることが判明しました。
 抑々、漢音とは元々唐代の長安音の読み方ですので、この漢音に唐代の声調(四声:平声・上声・去声・入声)をつけて読めば、或いは現代の支那諸語(北京語、上海語、広東語、閩南語等々)よりも古代の長安音に似ているのかもしれません。



 【おまけ:演唱版 ↓ 】

Sb1春曉