伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

遠別離(日本編)


 日本の唱歌「遠別離」は、1901年(明治34年)3月に東京音楽学校が尋常中学生徒用に編集した音楽の教科書『中学唱歌』に収録されている楽曲です。


 この当時の中学校では音楽は必修科目ではなく、随意科目として12歳で入学してからの中学5年間(飛び級で4年で卒業する者もあった。)の内、最初の3年間だけ選択できるようにしているところが多かったようです。


 「遠別離」の作詞・作曲者の氏名については公表されていません。
 当時は、国の音楽教育の建前から教育用の唱歌については「国による訂正を含む権利取得」とすることが一般的で、よほど高名な音楽家の作品を除き、その他の製作者に対しては一時金を支払って著作権を買い上げることにより、爾後は個人の権利を認めなかったため、多くの作品が個人の著作とされていません。
 しかしながら、近年の音楽史研究によると、この楽曲は当時の音楽学校教授であった国文学者の中村秋香(なかむら あきか:男)が作詞し、同じく教授であった杉浦千歌(すぎうら ちか:女) が作曲したと考えられています。


 歌詞は2節だけの短いもので、第1節で旅立つ友との別れの憂いを詠じ、第2節で友を励ます言葉を述べて結んでいます。


 文体は、当然ながら文語体です。
 今の日本人の感覚では、「こんな難しい文章を中学生が読めるのか?」と不思議に思われるかもしれませんが、明治から大東亜戦争終結に至るまでは、新聞も書籍もこの文体が標準であったのです。口語体で文章を書いたのは夏目漱石などごく限られた人だけです。


 そのような文語体であっても、新聞などでは使われている漢字の多くに振り仮名を付けてあったので、小学校卒業程度の学力があれば誰でも読みこなせるものでした。


 また、この詞の最後に見える「行きて勉(つと)めよ 國の爲 」との句は、中学生には大袈裟と感じられるかもしれませんが、時代背景が現在とは全く異なっていたことを知っておく必要があります。


 この曲が出来た明治34年ごろは、12歳で小学校を卒業した者の内95%は家業を継ぐなり家を出て丁稚奉公に行くなりして就職しています。
 残りの5%は中学或いは実業学校等に進学していますが、そこを卒業して高校以上に進むのは0.5%、つまり同世代の中の200人に1人だけだったのです。
 そのため、中学生になると社会のエリートとして一目置かれ、高校生にもなると学者として尊敬される立場だったのであります。
 換言すれば、日本人の99.5%の人々が、12歳から15歳くらいまでの間には人生の進路を決める一大決心を迫られたのであります。


 また、国際情勢を顧みると、モスクワ公国以来の領土拡張主義に基づき、不凍港の領有を企図するロシアの南下政策により、支那や朝鮮のみならず、日本の領土も脅かされていた時代であり、この曲が出来た3年後には日露戦争が勃発しています。


 即ち、10代前半の未だ子供と言える年齢で、社会的にも経済的にも自立し、場合によっては生命の危険をも覚悟せざるを得なかった時代なのであります。


 当然、見送る人の悲しみや送られる人の不安などは、今とは比較にならぬ程大きかったものと考えられます。


 明治の代に、国の期待を一身に受けて旅立つ尋常中学生に思いを寄せて、古今不朽の送別詞をご清聴ください。


 なお、最後の一句「・・勉(つと)めよ・・」を動画では「・・盡(つく)せよ・・」と歌っていますが、正調は前者の方です。



 遠別離  
                   中学唱歌明治34年
                   作詞・作曲:不詳  
一、
程遠からぬ 旅だにも
袂(たもと)分(わか)つは 憂きものを
千重(ちへ)の浪路(なみぢ)を 隔つべき
今日(けふ)の別(わかれ)を 如何にせん

旅程雖不遠
分袂多憂愁
況隔千重濤
今日別如何


二、
我(われ)も益荒男(ますらを)いたづらに
袖(そで)は濡らさじ さはいへど
いざ勇ましく 行(ゆ)けや君
行(ゆ)きて勉(つと)めよ 國の爲 

我亦大丈夫
徒然不濡袖
君逝勇敢逝

逝勉爲報國




16 遠別離