芭蕉布(音楽編)
歌曲「芭蕉布(ばしょうふ)」は、1965年(昭和40年)7月2日に、ハワイ生まれで沖縄系三世のアメリカ人歌手、クララ新川の演唱により発表された楽曲です。
この歌は、曲がまず先に作られました。
作曲は、新しい沖縄の楽曲づくりに情熱を傾けて、西洋音楽でも既存の沖縄民謡でもない新しい沖縄サウンドを作り出し、現地では古賀政男と並び称される普久原恒勇(ふくはらつねお)が担当しました。
クララ新川のために「沖縄らしい曲を」と知人から頼まれた普久原は「外国の人にも歌いやすいように、日本にも沖縄にもない常識破りのパターン」で作曲しました。
出来上がったばかりで題名のないこの曲のために、普久原は知人に作詞を依頼しましたが、一番は「大和口(日本語)」、二番は「英語」、三番は「混有型」という難しい注文を付けたため、なかなか出来上がりませんでした。
そうこうしているうちに、地元で中学校教師をしていた吉川安一から「芭蕉布」と名付けられた沖縄口(ウチナーグチ:沖縄語)の詞が持ち込まれました。
吉川はこの詞について、「母が芭蕉布を織っていたが、その幼いころの記憶を縦糸に、亜熱帯海洋性の温暖な自然の美や独自の言語、文化を横糸にして織りなし、特に地域を限定しないふるさと沖縄賛歌として書いた。」と語っています。
また、歌い起こしの詞語「海の青さ」「空の青さ」には「温暖な気候や自然の美、自分の母だけでなく沖縄の女性の明るさや優しさを象徴させる」とともに「平和の色彩」のシンボルにしたとも述べています。
この詞の中の一句、「芭蕉は情けに手を招く」とは、芭蕉が風に葉をなびかせる姿を擬人化して「沖縄の人たちのチムグクル(心根)、イチャリバチョーデー(一度会ったら皆兄弟)の精神」を込めたものです。
こうして完成したこの歌は、1965年(昭和40年)5月18日RBC琉球放送スタジオで録音されて、7月2日に普久原恒勇の養父である普久原朝喜が経営していた沖縄民謡のレーベル「マルフク レコード」(大阪)から発売されました。
インディーズのレーベルでもあり、レコードはほとんど売れなかったようですが、ラジオ番組などでの紹介もあり、徐々に沖縄の人々の間に浸透して、今では沖縄民謡の一つに数えられるようになり、多くの歌手がカバーしています。
沖縄音階ではないにもかかわらず、南国の芭蕉の葉陰で爽やかな風に吹かれるような郷愁を漂わせるこの楽曲を、今回は原唱のクララ新川版と新しいところで♪癒しのポップバラード歌手♪芙美子の版でご紹介します。
なお、原詞は沖縄語で書かれていますので、標準語への翻訳文を青字で添付しました。
芭蕉布
作詞:吉川安一 (沖縄語)
作曲:普久原恒勇
1節
海の青さに 空の青
南の風に 緑葉(みどりば)の
芭蕉は情けに 手を招く
常夏(とこなつ)の国
我(わ)した島 沖縄(うちなー)(「島」には、本来の「島」と「故郷」の両義がある)
海の青さに 空の青
南の風に 緑葉の
芭蕉は情けに 手を招く
常夏の国
私たちの故郷の島 沖縄
2節
首里(しゅり)の古城の 石だたみ
昔を偲(しの)ぶ かたほとり
実れる芭蕉 熟(う)れていた
緑葉の下
我(わ)した島 沖縄(うちなー)
首里の古城の 石畳
昔を偲ぶ かたほとり(「かたほとり」とは「町外れ」を意味する日本語の古語)
実れる芭蕉 熟れていた
緑葉の下
私たちの故郷の島 沖縄
3節
今は昔の 首里天 加那志(しゅいてぃん じゃなし)
唐ヲゥー(とううぅー)つむぎ はたを織り (「ヲゥ」は、ワ行の「ウ(WU)」)
上納(じょうのう)ささげた 芭蕉布(ばしょうふ)
浅地(あさじ)紺地(くんじ)の
我(わ)した島 沖縄(うちなー)
今は昔の 首里王様に(首里天=首里王、加那志=王族に付ける敬称)
芭蕉の糸を紡ぎ 機(はた)を織り〔唐ヲゥー(TOU-WUー):芭蕉の繊維〕
上納して捧げた 芭蕉布
浅地紺地の(「浅地」は薄茶色、「紺地」は藍色)
私たちの故郷の島 沖縄
48年前のクララ新川 「芭蕉布」マルフク オリジナル盤原音
52年前のクララ新川「芭蕉布」マルフクレコード KF149 オリジナル盤原音
1965年(昭和40年)5月18日RBC琉球放送スタジオにて録音 7月2日販売開始
芭蕉布(台灣版本)
塡詞:伊賀山人
1節
海藍天空的青
為南的風綠葉
芭蕉向同情招待手
常夏的國家
我們的美麗島台灣
2節
台北的古城的舖石的地
回憶從前的偏僻的鄉村
結果實的芭蕉
熟的 綠葉下
我們的美麗島台灣
3節
現在從前的台北大王
紡芭蕉的線織時機
上繳奉獻的芭蕉纖維織的布
薄茶色藍色映照
我們的美麗島台灣
芭蕉布
♪癒しのポップバラード歌手♪ 芙美子
芭蕉布(織物編)は、こちら↓
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