八田與一:豐饒嘉南(八田與一:豊穣なる嘉南平原)
【「珊瑚潭(さんごたん)」と呼ばれている烏山頭ダムのダム湖】
八田 與一(はった よいち、1886年(明治19年)2月21日 – 1942年(昭和17年)5月8日)は、1886年(明治19年)に石川県河北郡花園村(現在の金沢市今町)で生まれて、1910年(明治43年)7月に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、当時の日本統治下の台灣に渡り、臺灣總督府土木部(諸説あり。)に技手として就職しました。
その当時の台灣では、初代民政長官であった後藤新平以来15年間、マラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られており、八田も当初は衛生事業に従事し嘉義市・台南市・高雄市など、各都市の上下水道の整備を担当しました。
その後、発電・灌漑事業の部門に移り、1910年総督府土木部工務課で濱野彌四郎(はまの やしろう、1869年10月13日(明治2年9月9日) - 1932年(昭和7年)12月30日:伊賀山人の遠縁)に仕えることになりました。
八田は台南水道の事業で実地調査に随行するうちに濱野から多くのことを学び、後述の嘉南大圳や烏山頭ダムにその経験が活かされることになりました。
1919年に濱野が土木工務課を離任して台湾を去ると、八田は台南水道に恩人の濱野の銅像を建立しています。なお、この像は戦時中の金属供出令で資材に流用されてしまいましたが、60年の歳月を経て台湾の化学工業企業「奇美実業」創業者の許文龍により再制作されて、2005年に元の水源地に設置されています。
1914年八田28歳の時に技師に昇進すると同時に、当時着工中であった桃園大圳(とうえんたいしゅう)の水利工事を一任されてこれを成功させ高い評価を受けました。
1917年、八田は31歳のときに故郷金沢の開業医で、後に石川県議なども務めた米村吉太郎の長女・外代樹(とよき)(当時16歳)と結婚しました。
その翌年、1918年(大正7年)に八田は台湾南部の地で、夏季は氾濫,冬季は乾燥と全く農業に不向きである不毛の大地と呼ばれていた嘉南平野の調査を行いました。
嘉南平野は台湾の中では最大の平原ですが、当時は灌漑設備が不十分であるためにこの地域にある15万ヘクタールほどある田畑は常に旱魃の危険にさらされていました。
そこで八田は民政長官下村 宏〔しもむら ひろし、1875年(明治8年)5月11日 - 1957年(昭和32年)12月9日、号は下村 海南(しもむら かいなん)で歌人としても知られる。〕の一任の下、官田渓の水をせき止め、更に隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を上司に提出し、更に精査したうえで国会に提出して認められました。
この事業は受益者が「官田渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成して施行し、半額を国費で賄うこととなりました。このため八田はいったん總督府を退職して組合に入り、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)の完成までの10 年間にわたり烏山頭貯水池事務所長として工事実施を指揮しました。
そして総工費5,400万円を要した工事は、建設当時東洋一といわれた満水面積1000ha、有効貯水量1億5,000万m3の大貯水池・烏山頭ダムとして完成しました。
なお、このダムはダム湖の形がサンゴに似ていることから下村海南によって「珊瑚潭(さんごたん)」の美称が与えられています。
またこのダムと同時に建設された灌漑用水路も嘉南平野一帯に延べ16,000kmにわたって細かくはりめぐらされて、烏山頭ダムを含む水利設備全体が嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれています。
八田は、ダム建設に際して作業員の福利厚生を充実させるため宿舎・学校・病院・大浴場・テニスコートなども建設しました。
1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が起こり予算削減の為に作業員の一部を解雇することになったときには、八田は、有能な者はすぐに再就職できるであろうと考え、有能な者から解雇する一方で再就職先の世話もしました。
八田は、工事が終わりに近づいた1930年(昭和5 年)3 月、工事のために 亡くなった人々134 人の氏名を刻んだ「殉工碑」を建てましたが、名前は亡くなった順に日本人と台湾人とが分け隔てなく混じって刻まれています。
烏山頭ダム傍にある八田の銅像はダム完成後の1931年(昭和6年)に住民の民意により募金で作られて同年7月8日に八田立会いのもと除幕式も行われたものですが、八田が自分の銅像設置を固辞していたことから、住民は一般的な威圧姿勢の立像を諦め工事中に見かけられた八田が困難に直面して一人熟考し苦悩する様子を模したものにして碑文や台座は無く地面に直接設置することで漸く八田の了解を得て建立されたため非常に質素で控えめなものになっています。
【建立直後の八田與一の銅像、現在は戦後作られた台座に載り碑文も設置されている。】
1939年(昭和14年)、八田は臺灣總督府に復帰し、勅任技師として台湾の産業計画の策定などに従事しました。また対岸の中華民國福建省主席の陳儀の招聘を受け、福建省の開発について諮問を受けるなどしています。
大東亜戦争中の1942年(昭和17年)5月、八田は陸軍の命令によって3人の部下と共に客船大洋丸に乗船して、当時日本の軍政下にあったフィリピンの綿作灌漑調査のため広島県宇品港で乗船、出港しましたが、航海の途中、五島列島付近でアメリカ海軍の潜水艦グレナディアーによる非武装民間船舶を雷撃するという国際法違反の明白な戦争犯罪である蛮行により大洋丸は撃沈され、八田も巻き込まれて殉職しました。八田の遺体は対馬海流に乗って山口県萩市沖に漂着し、萩の漁師によって引き揚げられたと伝えられています。
日本敗戦後の1945年(昭和20年)9月1日、妻の外代樹も夫の八田の後を追うようにして烏山頭ダムの放水口に投身自殺を遂げて果てています。
烏山頭ダムは、2000年代以降も嘉南平野を潤していますが、その大きな役割を今は曽文渓ダムに譲っています。この曽文渓ダムは1973年に完成したダムですが、建設の計画自体は30年以上前に八田が策定したものでした。また、地震の多い台灣の地域の特性に応じ、八田が採用したコンクリートを殆ど使わず、主に粘土・砂・礫で堤体を構築するセミ・ハイドロリックフィル工法という手法によりダム内に土砂が溜まりにくくなっており、近年これと同時期に作られたコンクリートのダムが機能不全に陥っていく中で、どちらのダムもしっかりと稼動しています。
八田の功績は、現在でも台灣の中學生向け教科書『認識台灣 歴史篇』に詳しく紹介されており、毎年八田の命日の5月8日には公園として整備されている烏山頭水庫風景區で八田の慰霊祭が行われています。
【2020年嘉南大圳着工100周年の折の慰霊祭の風景】
2004年(平成16年)末に訪日した李登輝台灣總統は、八田の故郷・金沢市も訪問して感謝の意を表しています。
また、2007年5月21日に、陳水扁總統は八田に対して中華民國が民間人に与える最高の栄誉である「褒章令(ほうしょうれい)」を授与しています。
更に、2008年5月8日には、馬英九總統が烏山頭ダムでの八田の慰霊祭に参加しました。
翌年の慰霊祭にも参加して、八田がダム建設時に住んでいた宿舎跡地を復元・整備して「八田與一記念園區」(園區=公園)を建設すると表明しました。
2009年7月30日に記念公園の安全祈願祭、2010年2月10日に着工式が行われ、2011年5月8日に約5万平方メートルの敷地に、往時は約200棟建ち並んでいた官舎や宿舎のうち4棟を当時の姿に復元して建築しこの公園は完成しました。公園の完成式典には、馬英九總統を始めとして八田の遺族や八田の故郷・石川県出身の元内閣総理大臣・森喜朗などが臨席しました。
【八田與一記念園區の入口】
その後、妻の外代樹も顕彰の対象となり、2013年9月1日には八田與一記念公園内に外代樹の銅像が建立されました。
【八田與一の妻外代樹の銅像】
昨年(2020年)は、嘉南大圳着工100周年を記念して、八田の没後78回目の命日に先立つ5月6日に記念式典や写真展なども挙行されています。
【嘉南大圳着工100周年(2020年)記念写真展の様子】
日本よりも、八田が実際に業績をあげた台湾での知名度のほうが高い往年の水利技術者八田與一、本日烏山頭ダムでは例年どおり慰霊祭が行われることと推察しつつ、臺南市政府が作成した動画で八田の業績をご紹介します。
八田與一 豊穣な嘉南平原(八田與一 豐饒嘉南)
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