オランダ(勘違いの女王)
【2013年1月28日テレビで退位表明した際のオランダ女王ベアトリクス】
昭和天皇崩御後の平成3年(1991年)10月、オランダ女王ベアトリクスは歴代オランダ元首として初めて日本を公式訪問しました。
この時、今上天皇陛下が主催された晩餐会のスピーチで、第二次世界大戦時のインドネシアにおける自国民の犠牲について、傲慢無礼にも次のように述べて賠償金を要求しました。
《宮中晩餐会でのオランダ女王ベアトリックス挨拶》
「不幸なことに、第二次世界大戦の出来事により両国の国民の間に深い溝が生じました。数多くのオランダ国民が太平洋における戦争の犠牲になりました。その中には軍隊の一員として巻き込まれた者もいましたが、十万人以上の民間人もまた、何年もの間抑留されました。日本ではあまり知られていない歴史の一章です。多数の同胞が戦争で命を失い、帰国できた者にとっても、その経験は生涯、傷痕として残っています。その結果、これらの人々は、今なお痛みや苦しみに悩まされているのです。日本の国民さえも、戦争の恐ろしい結果に苦しまなければなりませんでした。私たちの過去に暗い影を落としている苦い経験を真摯な目で認識することこそ、憤りや恨みに満ちた気持ちを克服する一助になるはずです」
この翌日、首相官邸での午餐会で、国益のなんたるかも知らずに首相に就いていた素人政治家海部俊樹は、無礼極まりないこの女王に「旧蘭領東インド(インドネシア)に在住した貴国の人々が戦争によって大きな苦しみを受けられたことは誠に遺憾だった」と筋違いな謝罪をしたため、女王は日本のアジア女性基金から総額2億5500万円の医療福祉支援の供与をまんまとせしめて帰国しました。
インドネシアにいたオランダ人を追い出して 苦い経験 をさせたことがそんなに悪いことなら、過去に暗い影を落としている オランダ人の方々は、いったい何をするために遙々海の遠くから現地に来ていたのでしょうか?
どうもこの女王は、オランダ人がインドネシアを植民地にしていたのは、慈善事業か国際貢献の為とでも勘違いしているようです。
この晩さん会の4年後の1995年に、この勘違い女王ベアトリクスがインドネシアを訪問した際には、スピーチ中に「植民地支配はお互いに恵みを与えた」などとの妄言を吐いて、現地で暴動が起きかねないほどインドネシア人を激怒させました。
盗人猛々しいオランダの植民地支配に対する意識の一端が垣間見える出来事でありました。
かつてインドネシアは300年もの長きに亘り、オランダ東インド会社、次いでオランダ政府の支配下にありました。オランダが19世紀にジャワで始めた強制栽培制度は、現地人に多数の餓死者を出しつづけた最も残忍な植民地収奪のメカニズムとして今日でも世界各国の歴史の教科書に載っています。 《徳岡孝夫 「完本紳士と淑女」より》
インドネシア人は、オランダ人から家畜以下の存在として扱われていました。
鞭打ち・平手打ちは当たり前のことで、ある時には、オランダ人農場主が、粗相をした2人の女性を裸にしてベルトで鞭打ち、さらに裂けた傷口や局部にトウガラシ粉をすりこんで、木の杭に縛りつけて見せしめにするようなこともありました。
刑務所で過酷な労役を課せられている囚人ですら、オランダ人の農場より食べ物がいいからと、刑期が満了しても出所を拒むことも珍しくありませんでした。《前野徹 「戦後歴史の真実」より》
オランダがインドネシアで行った植民地政策は、愚民政策・貧民政策でした。
植民地時代のインドネシア人とオランダ人の所得比は、1:13,000 でした。
また、オランダ人は、怪我や病気で血や膿を全身に流している現地人に薬一つ与えず死ぬまで働かせました。
そのため貧困にあえぎ、傷病に苦しみ、重労働を強いられたインドネシア人の平均寿命は、オランダ支配下の300年間に35才にまで低下したと言われています。
大東亜戦争開戦に伴い、オランダ人を追い払うために、インドネシアに日本軍が進駐してきたときには、国中に地鳴りがするような歓迎のどよめきが湧き起こったと言われています。《小川義男 正論2005/12月号》
元々、オランダは、江戸時代の鎖国下において欧州諸国で唯一日本と外交関係を維持していた国でもあります。
当時も、日本に慈善事業に来ていたわけではありません。他の欧米諸国を出し抜いて、あわよくば日本を植民地にする企みを持ってのことです。
日本がオランダの植民地にされなかったのは、侵略を拒否する朝廷・幕府の強固な意志と、旧式とはいえ、それを可能ならしめる武力があったからに他なりません。
オランダは戦後、サンフランシスコ平和条約を締結し、その際に日本に対する賠償請求権を放棄したにもかかわらず、その後も執拗に賠償請求を続け、1956年には「オランダとの私的請求権解決に関する議定書(日蘭議定書)」において、ジャワで拘留された元捕虜や同国民間人に与えた損害(民間人の私的請求権)について日本から補償(見舞金36億円)を強奪しました。
翻ってオランダは、300年に亘る残酷かつ野蛮な植民地支配に対する反省と謝罪については、インドネシア政府からの度重なる要求に応じず、完全拒否の姿勢を貫いています。
それどころか、オランダはインドネシア独立を承認する際にはインドネシア政府に60億ドルを請求し、またオランダ人がインドネシアに所有してきた土地財産の保全、スマトラ油田の開発費用の弁済などをインドネシアに要求しています。
オランダの国民性ともいうべき、朝鮮人的自己中心主義や独占欲については、EU諸国の間でも快くは思われていないようです。
EUの会議の席上、床に落ちていた財布を拾った人が声を上げました。
「これは、誰の財布ですか~?」
後ろを向いていたオランダ人がその財布を見もせず、振り向きざまに怒鳴りました。
『オラんだ~!!!』
1942年に、皇軍がインドネシアからオランダ人を追い出した経緯については次をご参照ください。
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