「襟裳岬」三者三様
【襟裳岬】
襟裳岬は、、北海道幌泉(ほろいずみ)郡えりも町にある岬で、日高山脈の最南端から太平洋に向かって南へ突き出した断崖絶壁の岬で、海上に点々と岩礁群が伸びています。
1973年、この地を訪れた詩人の岡本おさみは、盟友の吉田拓郎の依頼に応じて、襟裳の春を題材とする詩を1首作りました。
これが、翌年演歌師の森進一が歌って一世を風靡した歌曲の「襟裳岬」です。
「放浪の詩人」と呼ばれて、1箇月のうち20日以上を旅の空の下にいた岡本おさみの詩には、「旅の宿」や「めぐる季節に」など旅を詠んだものが多く残されています。
この人の詩は、詩語そのものは平易なものですが、それらを組み合わせた各句は非常に包括的で難解なものになっています。
このため、それを読む人それぞれに解釈が異なる深い詩であるとも言えるでしょう。
以下、最も分かりにくい部分について、伊賀流の解釈をご紹介します。
1節
北の街ではもう 悲しみを暖炉で
燃やしはじめてるらしい*1
理由のわからないことで 悩んでいるうち(に)
老いぼれてしまうから
黙りとおした 歳月を ひろい集めて 暖めあおう
襟裳の春は 何もない春です*2
*1 「暖炉で燃やしはじめる」の語から、秋のことかと勘違いする人がいますが、ここ
で燃やしているのは、薪でも石炭でもなく「悲しみ」ですので、季節は関係ありませ
ん。
また、北海道では、真夏でも雨が降ればストーブを焚くほど冷え込みますので、
暖炉と季節とはそもそも無関係です。
*2 この句では、「襟裳に何もない」とは言っていません。
「襟裳の春には何もない」、即ち「襟裳の春には、もう悲しみや悩みはない」と
主張しているものと解釈されます。
2節
君は二杯めだよね コーヒーカップに
角砂糖をひとつだったね
捨てて来てしまった わずらわしさだけを*3
くるくるかきまわして
通りすぎた 夏の匂い 想い出して 懐かしいね
襟裳の春は 何もない春です
*3 この句から、「襟裳の春には、わずらわしさもない」と読み取れます。
3節
日々の暮らしはいやでも やってくるけど
静かに笑ってしまおう*4
いじけることだけが 生きることだと
飼い馴らしすぎたので
身構えながら 話すなんて ああおくびょう なんだよね
襟裳の春は 何もない春です
寒い友だちが 訪ねてきたよ
遠慮はいらないから 暖まってゆきなよ*5
*4 この句からは、俗塵にまみれた日々の暮らしも笑い飛ばして生きていこうという
前向きな主張が感じられます。
当時、本人に責任のないスキャンダルに巻き込まれていた吉田拓郎と森進一の両人
を思いやる岡本の心情が表されています。
*5 この1句は、襟裳岬に辿り着いた岡本が、あまりの寒さに傍にあった土産物屋に
立ち寄ったところ、そこの女主人が「何もないけど暖まって行きなさい」と言いなが
ら、お茶を差し出してくれたことに感激したことを詠じたものです。
以下、森進一、吉田拓郎及び岡本おさみ、三者三様の解釈による演唱をご紹介します。
森進一-襟裳岬
演歌師の森進一が、フォークソングを歌うことになったのは、当時日本ビクターに入社したてのディレクターだった高橋隆(元ソルティー・シュガーのメンバー)が以前、吉田拓郎から「森さんみたいな人に書いてみたい」という話を聞いていて実現に至ったものです。
しかし、ビクターレコード上層部や渡辺プロダクションのスタッフの反応は「フォークソングのイメージは森に合わない」「こんな字余りのような曲は森に似合わない」と評され、当初はシングル盤のB面扱いでした。
当時の森は、妄想に憑りつかれたファンからの「森と婚約したのに裏切られた」との度重なる誹謗中傷と同居していた母親がそれを苦にして47歳の若さで自殺したことや、その後のマスコミによる根拠のないバッシングなどがあり、歌手を辞めようかと悩んでいた時期でした。
当時、森と同様のスキャンダルに巻き込まれていた拓郎からの思いやりと、この曲の第3節の「日々の暮らしはいやでも やってくるけど 静かに笑ってしまおう」という歌詞に感動した森は、当時所属していた渡辺プロダクションのスタッフの反対を押し切り、両A面という扱いに変更して1974年1月に発売しました。
森の演歌調にアレンジしたこの曲は、爆発的な大ヒットとなり、その年の第5回日本歌謡大賞と第16回日本レコード大賞とをダブル受賞し、年末の第25回NHK紅白歌合戦では、この歌で本人初の大トリを努めることになりました。
森の喜びようは尋常ではなく、レコード大賞の授賞式には、滅多にテレビに出ない岡本と拓郎とが、この日だけは森の勧めに応じて作詞者と作曲者としてステージに上がりました。
尤も、周りはタキシードなどを着込んだ正装なのに、拓郎だけはGパンにGジャンというスタイルで平然とトロフィーを受け取り、根も葉もないスキャンダルをでっち上げたテレビに対する反骨精神を示していました。
襟裳岬(つま恋コンサートより)
吉田拓郎は、「襟裳岬」作曲に先立つ1973年4月18日の金沢公演の夜に、拓郎から強姦されたと騙る女子大生に訴えられて、逮捕されてしまいました。
1箇月半に及ぶ勾留の後、結局、この女子大生がでっち上げた虚偽であることが判明して不起訴となり6月2日に釈放されて、その翌日には神田共立講堂のステージに立ちました。しかし、テレビや週刊誌などマスコミが吹聴したバッシングにあい、ツアーのキャンセル、曲の放送禁止、他人への提供曲も放送禁止、CM〔スバル・レックス(富士重工)、テクニクス(松下電器)〕の自粛といった処置がとられてしまいました。
「襟裳岬」は、失意のどん底に在った拓郎が、同様の境遇にあった森の為に曲を書いたことが、万人の心に響くヒットの要因の一つとなったのかもしれません。
岡本おさみの詩に曲を付けた拓郎は、自ら歌ったデモテープと共に楽譜を森に送りましたが、諸般の事情により、拓郎自身の歌唱指導はできませんでした。
その後、拓郎の歌唱指導なしで完成した、オーケストラをバックに歌う森のデモテープが拓郎に届きました。
その演歌調でドラマチックに歌い上げる森の歌唱を聞いた拓郎は、自身が歌ったデモテープの拓郎節とのあまりの違いに吃驚して、イントロのトランペットを聞いた途端にひっくり返って天井を仰いだと述懐しています。
森の歌がヒットした1974年の暮れ、拓郎は、セルフカバーで「襟裳岬」を発表しています。
森の絶叫調の歌が歌唱を聴かせるのに対し、拓郎の淡々とした歌い方はあくまでもメッセージを伝えるものになっています。
岡本おさみ/風なんだよ/08)襟裳岬
作詩した岡本おさみもこの曲を歌っています。
自ら歌うことなど殆どなかった詩人の数少ないアルバムの中から1曲ご紹介します。
優しい声で、歌詞そのものをしみじみと語る歌になっています。
旅の宿で詩想を練り続けた放浪の詩人岡本おさみ、残念ながら一昨年(2015年)11月30日、終に帰らぬ旅に出てしまいました。享年74(満73歳)。 合掌
襟裳岬
一節
在北方街道裡 人們似乎已經把悲傷
開始丟到暖爐燃燒了吧
正當為莫名之事 而煩惱時
在不知不覺中 年華已漸逝去
把默默經過 的歲月 撿拾收集起來 加以暖和吧
襟裳的春天 是一無所有的春天
二節
你已喝兩杯咖啡了 咖啡杯中
只放了一塊方糖呢
將捨棄掉心煩的事 一起放入杯中
不停地來回攪拌著
卻回想起令人懷念的 已飄然而過的 夏之氣息
襟裳的春天 是一無所有的春天
三節
每天的生活儘管感到厭倦 日子還是要過
靜靜地笑出來吧
在畏畏縮縮 的生活中
是因為已養成這種習慣與方式
裝模做樣擺著姿態說話 啊~這更顯出 膽小的一面罷了
襟裳的春天 是一無所有的春天
受寒的朋友 來訪了
沒有什麼好客氣的 請靠近暖爐 取個暖吧
おまけ:鄧麗君、森進一「襟裳岬」現場版 1984.5.31 ▼
鄧麗君、森進一「襟裳岬」現場版 1984.5.31
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