伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

街燈下(街燈の下:劉家昌演唱)


 「街燈下」は、台灣で作詞家、作曲家、歌手、俳優、映画監督など様々な芸能活動をこなしているマルチタレントの劉家昌が康白(詳細不詳)の詞に曲を付けて、1969年に同名のアルバムの第1曲目に収録して発表したアルバムの表題曲です。


 この楽曲は、翌年劉家昌が僅か三日間で製作し1971年に公開した映画《有我就有你》(私がいてあなたがいる)の主題歌としても使用されました。
 映画の方は全く売れませんでしたが、主題歌の「街燈下」は老若男女を問わず多くの人々の間で評判となり一世を風靡しました。


 歌詞の詞形は、六言句三句に七言句を一句加えて四句を一首とする雑言定型詞二首からなっています。


 歌詞の内容としては、街燈の下の景色を眺めながら感懐を詠ずるだけのものですが、説明的な詞句が一切ないため、聞く人それぞれの立場で如何様にも解釈できる包括的・抽象的なものになっています。


 全体的には「別離」の寂寞感を詠じているように思えますが、そのような説明はありません。
 詞題にもなっている「街燈」を擬人化しているのは確かですが、「街燈」を別れた人に擬えているとも、別れた両者を客観的に見ている第三者とも解せます。
 初句に見える「今日」と「昨」は、「本日」と「昨日」とも「今」と「昔」とも解せる含みのある表現です。
 最後の二句の「當我不再走過 街燈也忘記了我」は、「過去から現在」へのこととも「現在から未来」へのこととも解せます。


 また、同じ劉家昌の演唱であっても若い時と歳を重ねてからでは、歌い方が大きく変化しており解釈が異なっているように思えます。


 このような言外の余情を多く含み複数の解釈が可能となる深遠な歌詞は、口語訳よりも漢文訓読体の方が適しています。


 伊賀流翻訳としては、まず訓読文を掲載して、次に現代口語訳については劉家昌若年の折のカンツォーネ風の演唱と高齢に至ってからのシャンソン風の演唱の二本の動画を添付してそれぞれの解釈をご紹介します。



(白文)

 街燈下

            作詞:康白 作曲:劉家昌 編曲:錢幽蘭

今日街燈如昨 燈下一片荒漠

昨天隨風吹過 留下了今天的我

街燈為誰明亮 照亮誰的寂寞

當我不再走過 街燈也忘記了我


(訓読文)

 街燈の下

                   

今日(こんじつ)の街燈(がいとう)昨(さく)の如く 

燈下(とうか)は一片荒漠(いっぺんくゎうばく)たり

昨天(さくてん)は風に隨(したが)ひて吹き過ぎ 

今天(こんてん)に我を留下(りゅうか)せり

街燈(がいとう)誰(た)が為に明亮(あきらか)にして 

誰(た)が寂寞(せきばく)を照亮(てら)すか

當(まさ)に我(われ)再(ま)た走り過(よぎ)らず 

街燈(がいとう)也(ま)た我を忘記(ばうき)すべし



(劉家昌若年の折の演唱解釈)

 街燈の下

                   

今日の街燈は昨日と同じように 

燈下は一面砂漠のように荒れ果てて見える

昨日の一日は風と共に吹き過ぎてゆき 

今日に私を残していった

街燈は誰のために明るく輝き 

誰の寂しさや悲しさを照しているのだろうか

私はもう二度と街燈の下に来ることはない 

街燈もまた私を忘れ去ってしまうことだろう



劉家昌 - 街燈下



(劉家昌高年に至ってからの演唱解釈)

 街燈の下

                   

今でも街燈は昔と同じように 

一面砂漠のように荒れ果てた燈下の地を照らしている

昨日の日は風と共に吹き過ぎてゆき 

今日も昔のように私を残していった

街燈は誰のために明るく輝き 

誰の寂しさや悲しさを照し続けていたのだろうか

私はあの日から二度と街燈の下に来ることはなかった 

今では街燈もまた私を忘れ去っていることだろう



2010劉家昌封mic演唱會 劉家昌 街燈下 我倆在一起 part 3/16