伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

贈り物:禮物:The Gift(前篇)

【新型コロナワクチンを台湾へ輸送するための積み込み作業:6月4日午前、成田空港】


 台湾では、外国からの入境者の2週間隔離を始めとする水際対策により、5月14日までは新型コロナの感染者は殆どいませんでした。


 ところが、5月15日以降状況が急変し感染が拡大しています。


 この原因は、隔離期間を国際線のパイロットに関しては例外的に3日間に短縮したことにあります。


 インドから帰還したパイロットが自らの感染に気付かず、3日間の隔離の後台灣市中で行動したことが感染の拡大につながったと考えられています。


 台湾政府は、直ちにワクチンを入手すべく、米英と調整を開始しました。


 この情報を入手した大陸中共政府は、政治的思惑から早速台湾政府に「中共製のワクチンを提供する用意がある。」と申し入れます。
 この申し入れに対し、台湾政府は即座に「偽善は必要ない。中共が邪魔しなければワクチンは国際社会から購入できる。」と回答して拒否します。


 平和ボケした日本人なら中共の申し入れは有り難いことと思うかもしれませんが、中共には「無条件の善意」というものは存在しません。
 今まで、中共がワクチンを売りつけた国々には見返りとして港湾や空港の優先的使用権の要求のみならず、領有権を係争中の島嶼の割譲までをも要求しています。また相手国政府の要人に賄賂を贈り機密情報の収集を目論んでもいます。
 そもそも、中共製のワクチンは治験段階では手作りで念入りに作ったようですが、それでも有効率は50%程度でした。
 量産になると原料が違うのか製造工程が手抜きなのか、ほとんど抗ウィルス効果はなく、中共から購入して国民に接種した中近東諸国では益々感染が拡大して、何の予防効果もないことが証明されたことから米英からワクチンを輸入して追加接種している有様です。


 台湾が危惧した通り、中共は台湾のワクチン購入の妨害工作を始めます。
 まず、イギリス政府に圧力をかけ、アストラゼネカ社を脅迫して、香港・上海のみならず、台湾へのワクチン販売権をも横取りしたため、台湾は温度管理が容易なアストラゼネカ製のワクチンを購入できなくなりました。
 次いで中共は自らの偽善は棚上げにして、日米両政府に対して、台湾へのワクチン供与は中共の内政問題であり、日米が政治的目的のため悪用してはならないとの傲慢無礼な要求を突き付けてきました。


 この状況下で、日本政府は5月下旬から秘密裏に台湾へのワクチン提供を準備してきました。
 満を持して茂木外務大臣は6月4日閣議後の記者会見で、政府が新型コロナウイルスのワクチン124万回分を台湾に無償で提供すると発表しました。
 このワクチンは日本国内で製造した英アストラゼネカ仕様のもので、同日航空機で発送されて、午後には台湾に到着しました。



【日本の新型コロナワクチン提供を1面トップ記事で報じた6月4日付の台湾各紙】


 6月4日、報道規制が解かれた台灣の主要新聞各紙は、1面トップ記事で日本からのワクチン提供を伝え、心からの感謝の意を表明するとともに中共の脅しに屈さぬ日本政府の気概について賞賛しました。
 なお、今回提供したワクチンは国費で購入されて国有財産に組み込まれていたため、それを供与し輸出するためには非常に煩雑な手続きが必要でした。
 通常の役所仕事では、関係省庁との調整が複雑で、台湾に届くには半年から1年くらいはかかります。
 本来このような調整は官房長官の仕事ですが、やや力不足であったのか、依頼を受けた前総理大臣の安倍信三が調整の労を取りました。
 上記新聞に安倍前総理の写真が掲載されているのは、そのことを表しています。


 同日、台灣外交部(外務省)は声明を発表し「台湾と日本はもとより緊密な関係にあり、固い友情を築いてきた。災害や事故が発生するたびに互いに支援の手を差し伸べ、『雪中送炭(雪中に炭を送る)』という行動を繰り返し、長期にわたって支え合いの手本を他国に示してきた。このたび日本政府からワクチンの支援を受けられることは、わが国の感染症対策システムを強化し、国民の健康を守るために大きく役立つことだ。このことはまた、台湾と日本のパートナーシップが『患難真情(まさかのときの友こそ真の友)』であることを改めて証明した。日本の人々からの心温まる支援を、わが国の政府と国民は永遠に忘れないだろう。」と述べています。



【成田空港でワクチンを積み込んだ日航機と台北駐日経済文化代表処の謝長廷代表】


 6月4日午前中に、成田空港では日本航空機にワクチンを積み込む作業が行われました。
 台灣側窓口としてワクチン供与の調整を担当した台北駐日経済文化代表處(駐日台灣大使館)の謝長廷(シエ・チャンティン)代表(大使)は雨の中終始この作業を見守り、積み込みが終わると日本航空職員と日航機に向かって深々と一礼して謝意を表すとともに輸送中の無事を祈り日航機の出発を見送りました。


 謝代表はこの後、自身のフェイスブックで「一年前の四月、私はこの場所で中華航空が台湾から運んできたマスクを迎えました。今日はこの同じ場所で、日本航空が台湾に運ぶワクチンを嬉しく見送りました。どちらも新型コロナウイルス対策の為のもので、とても温かな気持ちで一杯です」「台湾と日本は困難な時に互いに支援し合う伝統があります。今回、日本からのこの124万回分のワクチンのご提供は、台湾にとり、まさに恵みの雨です」と日本語で感謝の意を表明しました。


【桃園国際空港で航空機から降ろされたワクチンが入ったコンテナ】


 同日午後2時に日航機は無事台灣の桃園国際空港に到着し、台灣の蔡 英文(ツァイ インウェン)總統は、直ちにオンラインで談話を発表し「奔走してくれた台湾と日本の当局と民間の人たちに言葉では言い尽くせないほど感謝しています」「価値観の共有に基づき、互いを信頼し助け合うという『台日友好』の真髄を改めて目にすることができました」と述べて心からの感謝の意を表明しました。



【台灣のビル「臺北101」に映し出された感謝の言葉】


 日本政府から無償提供されたコロナワクチンが台灣に到着したのを受け、台北市にある台灣で最も高い(509.2メートル)ビル「台北101」では4日夜、特別ライティングが実施されました。
 ビルの外壁には「台湾♡日本」や「台日の絆と感謝」、「一緒にウイルスと闘おう」など感謝や励ましの言葉が相次いで映し出されました。



【台湾の有名ホテル「圓山大飯店(円山グランドホテル)」のライティング】


 同様に、台北市にある老舗ホテル「円山グランドホテル」では4日夜、客室の照明を点灯し片仮名で「カンシャ」の文字を作って、コロナワクチンを届けてくれた日本に謝意を示しました。


 このホテルは5日、公式インスタグラムに「カンシャ 感謝」と題する記事を掲載し「グランドホテルは、日本への『ありがとう』を込めて明かりをともしました。風と雨の中、飛行機は台湾に着陸しました。大変な中、温かさを送ってくださった海外の友達、日本人の友達に感謝 いつまでもこの日を忘れません。」とコメントしています。



【台北市にある日本台湾交流協会に届けられた花束】


 台湾に新型コロナウイルスワクチンを寄贈した日本政府に感謝する花が、台北市内に位置する日本の対台湾窓口機関である「日本台湾交流協会(駐台日本大使館)」に続々と届けられています。
 同協会は4日夜、公式フェイスブックに台灣に到着した航空機の写真や、同協会を埋め尽くす大量の花の写真を投稿し、「日本は今できることをしただけ」と謙遜しつつ、「大勢の日本人が心から台湾のために何かしたいと望んでいる」と綴り、「台灣の皆さんの気持ちはよく伝わりました」と述べて感謝の意を表しました。


 日本人の国民性として恩着せがましく多くを語ることは有りません。
 台湾には在留外国人を含めると約2500万人が居住しています。
 今回贈った英国アストラゼネカ製のワクチンはたったの124万回分に過ぎません。
 実はこのワクチンは英国から輸入しているのではありません。
 英国のアストラゼネカの工場だけでは世界中からの需要に対して生産が追い付かないため、日本向けのワクチンは兵庫県芦屋市に本社がある製薬メーカー「JCRファーマ」の神戸にある工場で委託生産しているのです。
 124万回分という中途半端な数量は、6月4日に日本に存在していたアストラゼネカワクチンの在庫全数だったのです。


 そのような事実は、言わず語らずとも、分る人には分っています。


 古人曰く、「盡在不言中:盡(ことごと)く不言の中に在り」と。


日本人の善意は「盡在不言中」であると述べて感謝する台湾の朋友の記事▼


筆者注:盡在不言中

    盡(ことごと)く不言の中に在り

    言わず語らずとも誰もが一切のことを知っている   

八田與一:豐饒嘉南(八田與一:豊穣なる嘉南平原)

【「珊瑚潭(さんごたん)」と呼ばれている烏山頭ダムのダム湖】


 八田 與一(はった よいち、1886年(明治19年)2月21日 – 1942年(昭和17年)5月8日)は、1886年(明治19年)に石川県河北郡花園村(現在の金沢市今町)で生まれて、1910年(明治43年)7月に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、当時の日本統治下の台灣に渡り、臺灣總督府土木部(諸説あり。)に技手として就職しました。
 その当時の台灣では、初代民政長官であった後藤新平以来15年間、マラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られており、八田も当初は衛生事業に従事し嘉義市・台南市・高雄市など、各都市の上下水道の整備を担当しました。
 その後、発電・灌漑事業の部門に移り、1910年総督府土木部工務課で濱野彌四郎(はまの やしろう、1869年10月13日(明治2年9月9日) - 1932年(昭和7年)12月30日:伊賀山人の遠縁)に仕えることになりました。
 八田は台南水道の事業で実地調査に随行するうちに濱野から多くのことを学び、後述の嘉南大圳や烏山頭ダムにその経験が活かされることになりました。


 1919年に濱野が土木工務課を離任して台湾を去ると、八田は台南水道に恩人の濱野の銅像を建立しています。なお、この像は戦時中の金属供出令で資材に流用されてしまいましたが、60年の歳月を経て台湾の化学工業企業「奇美実業」創業者の許文龍により再制作されて、2005年に元の水源地に設置されています。


 1914年八田28歳の時に技師に昇進すると同時に、当時着工中であった桃園大圳(とうえんたいしゅう)の水利工事を一任されてこれを成功させ高い評価を受けました。


 1917年、八田は31歳のときに故郷金沢の開業医で、後に石川県議なども務めた米村吉太郎の長女・外代樹(とよき)(当時16歳)と結婚しました。


 その翌年、1918年(大正7年)に八田は台湾南部の地で、夏季は氾濫,冬季は乾燥と全く農業に不向きである不毛の大地と呼ばれていた嘉南平野の調査を行いました。


 嘉南平野は台湾の中では最大の平原ですが、当時は灌漑設備が不十分であるためにこの地域にある15万ヘクタールほどある田畑は常に旱魃の危険にさらされていました。
 そこで八田は民政長官下村 宏〔しもむら ひろし、1875年(明治8年)5月11日 - 1957年(昭和32年)12月9日、号は下村 海南(しもむら かいなん)で歌人としても知られる。〕の一任の下、官田渓の水をせき止め、更に隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を上司に提出し、更に精査したうえで国会に提出して認められました。
 この事業は受益者が「官田渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成して施行し、半額を国費で賄うこととなりました。このため八田はいったん總督府を退職して組合に入り、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)の完成までの10 年間にわたり烏山頭貯水池事務所長として工事実施を指揮しました。
 そして総工費5,400万円を要した工事は、建設当時東洋一といわれた満水面積1000ha、有効貯水量1億5,000万m3の大貯水池・烏山頭ダムとして完成しました。
 なお、このダムはダム湖の形がサンゴに似ていることから下村海南によって「珊瑚潭(さんごたん)」の美称が与えられています。
 またこのダムと同時に建設された灌漑用水路も嘉南平野一帯に延べ16,000kmにわたって細かくはりめぐらされて、烏山頭ダムを含む水利設備全体が嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれています。


 八田は、ダム建設に際して作業員の福利厚生を充実させるため宿舎・学校・病院・大浴場・テニスコートなども建設しました。
 1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が起こり予算削減の為に作業員の一部を解雇することになったときには、八田は、有能な者はすぐに再就職できるであろうと考え、有能な者から解雇する一方で再就職先の世話もしました。


 八田は、工事が終わりに近づいた1930年(昭和5 年)3 月、工事のために 亡くなった人々134 人の氏名を刻んだ「殉工碑」を建てましたが、名前は亡くなった順に日本人と台湾人とが分け隔てなく混じって刻まれています。


 烏山頭ダム傍にある八田の銅像はダム完成後の1931年(昭和6年)に住民の民意により募金で作られて同年7月8日に八田立会いのもと除幕式も行われたものですが、八田が自分の銅像設置を固辞していたことから、住民は一般的な威圧姿勢の立像を諦め工事中に見かけられた八田が困難に直面して一人熟考し苦悩する様子を模したものにして碑文や台座は無く地面に直接設置することで漸く八田の了解を得て建立されたため非常に質素で控えめなものになっています。


【建立直後の八田與一の銅像、現在は戦後作られた台座に載り碑文も設置されている。】


 1939年(昭和14年)、八田は臺灣總督府に復帰し、勅任技師として台湾の産業計画の策定などに従事しました。また対岸の中華民國福建省主席の陳儀の招聘を受け、福建省の開発について諮問を受けるなどしています。


 大東亜戦争中の1942年(昭和17年)5月、八田は陸軍の命令によって3人の部下と共に客船大洋丸に乗船して、当時日本の軍政下にあったフィリピンの綿作灌漑調査のため広島県宇品港で乗船、出港しましたが、航海の途中、五島列島付近でアメリカ海軍の潜水艦グレナディアーによる非武装民間船舶を雷撃するという国際法違反の明白な戦争犯罪である蛮行により大洋丸は撃沈され、八田も巻き込まれて殉職しました。八田の遺体は対馬海流に乗って山口県萩市沖に漂着し、萩の漁師によって引き揚げられたと伝えられています。


 日本敗戦後の1945年(昭和20年)9月1日、妻の外代樹も夫の八田の後を追うようにして烏山頭ダムの放水口に投身自殺を遂げて果てています。


 烏山頭ダムは、2000年代以降も嘉南平野を潤していますが、その大きな役割を今は曽文渓ダムに譲っています。この曽文渓ダムは1973年に完成したダムですが、建設の計画自体は30年以上前に八田が策定したものでした。また、地震の多い台灣の地域の特性に応じ、八田が採用したコンクリートを殆ど使わず、主に粘土・砂・礫で堤体を構築するセミ・ハイドロリックフィル工法という手法によりダム内に土砂が溜まりにくくなっており、近年これと同時期に作られたコンクリートのダムが機能不全に陥っていく中で、どちらのダムもしっかりと稼動しています。


 八田の功績は、現在でも台灣の中學生向け教科書『認識台灣 歴史篇』に詳しく紹介されており、毎年八田の命日の5月8日には公園として整備されている烏山頭水庫風景區で八田の慰霊祭が行われています。

【2020年嘉南大圳着工100周年の折の慰霊祭の風景】


 2004年(平成16年)末に訪日した李登輝台灣總統は、八田の故郷・金沢市も訪問して感謝の意を表しています。
 また、2007年5月21日に、陳水扁總統は八田に対して中華民國が民間人に与える最高の栄誉である「褒章令(ほうしょうれい)」を授与しています。
 更に、2008年5月8日には、馬英九總統が烏山頭ダムでの八田の慰霊祭に参加しました。
 翌年の慰霊祭にも参加して、八田がダム建設時に住んでいた宿舎跡地を復元・整備して「八田與一記念園區」(園區=公園)を建設すると表明しました。
 2009年7月30日に記念公園の安全祈願祭、2010年2月10日に着工式が行われ、2011年5月8日に約5万平方メートルの敷地に、往時は約200棟建ち並んでいた官舎や宿舎のうち4棟を当時の姿に復元して建築しこの公園は完成しました。公園の完成式典には、馬英九總統を始めとして八田の遺族や八田の故郷・石川県出身の元内閣総理大臣・森喜朗などが臨席しました。

【八田與一記念園區の入口】


 その後、妻の外代樹も顕彰の対象となり、2013年9月1日には八田與一記念公園内に外代樹の銅像が建立されました。

【八田與一の妻外代樹の銅像】


 昨年(2020年)は、嘉南大圳着工100周年を記念して、八田の没後78回目の命日に先立つ5月6日に記念式典や写真展なども挙行されています。

【嘉南大圳着工100周年(2020年)記念写真展の様子】


 日本よりも、八田が実際に業績をあげた台湾での知名度のほうが高い往年の水利技術者八田與一、本日烏山頭ダムでは例年どおり慰霊祭が行われることと推察しつつ、臺南市政府が作成した動画で八田の業績をご紹介します。



八田與一 豊穣な嘉南平原(八田與一 豐饒嘉南)