帝国大学附属病院
戦前、日本は植民地経営に国家予算の30%もの巨費を投じて、植民地の教育と医療に力を注ぎました。
その目的は、外地をいつまでも植民地にしておくのではなく、植民地の人々が、それぞれの国家の統治に必要な知識技能を習得し国家経営に必要な経済力を蓄えた暁には、出来る限り早期に独立できるように援助することにありました。
その証拠は、大東亜共栄圏構想の中に多々ありますが、ここでは割愛します。
1924年には朝鮮に京城帝国大学、1928年には台湾に台北帝国大学を設立しました。
大日本帝国は計9個の帝国大学を設立しましたが、京城帝大は6番目、台北帝大は7番目であり、大阪帝大、名古屋帝大よりも先に作ったのであります。
帝国大学附属病院についても、朝鮮や台湾には東京帝大よりも先に建設しています。
本国の主要都市よりも先に植民地に帝国(国立)大学や病院を設立して現地人に気配りした宗主国は、日本以外世界中のどこにもありません。
私の知る限り、米英仏蘭などの欧米列強がそれぞれの植民地において、現地人の為に建てた施設は刑務所だけです。
以下、附属病院について、現存するものについてご紹介します。
建築時期は、明治、大正、昭和と分かれていますが、いずれも、外観・構造共に重要文化財に相当する1級品です。
【京城帝國大學醫學部付属醫院】(竣工:1908年(明治41年)、詳細不明)
京城帝國大學醫學部付属醫院は、1908年、当時日本の保護国であった大韓帝国の大韓醫院として建築されて、1926年に、京城帝國大學醫學部の創設と共に附属病院に指定されました。
もちろん、日本人の設計で、日本国が資金を出して、日本の技術者が建築したものです。
現在、この建物は、ソウル大学病院医学博物館として使用されていますが、博物館の紹介記事の中に、建物の由来については、日本に関することは何一つ記載されていません。
「大韓帝国の皇帝だった純宗(スンジョン)の勅命により設立された」と記載されていますが、有りえないことです。
そもそも、朝鮮国(李氏朝鮮)は、1637年に清国と三田渡の盟約を結んで冊封国となって以来、日清戦争で日本が勝利して1895年に下関条約を締結して朝鮮を解放するまでの約260年間、清国に隷属する属国となって過酷な搾取に喘いでおりました。
この下関条約により、大日本帝国は清国に朝鮮が自主独立国であることを認めさせ、それまで何百年も続いていた朝鮮国(李氏朝鮮)から清国に対する貢物や奴婢の献上、臣下の典礼等を全て廃止させたのであります。
注: 下関条約第一条
「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す 因って独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全く之を廃止すべし」
その後も国家財政は破たん状態にあり、これを保護する日本からの援助で漸く国の体面を維持している状態で、勅命であろうが何であろうが、このような建築物を建てる余裕などありませんでした。
また、韓国の皇帝だった純宗が即位したのは、前皇帝高宗の不始末に起因する突然の譲位による1907年7月のことですので、その翌年にこの建物を完成することは不可能です。
しかしながら、南北朝鮮人は、彼らのでっち上げる「過去の歴史の正しい認識」のためには、誰のおかげで独立できたのかといった国の根幹に係わる事実までをも隠蔽し、或いは捏造することなどは日常茶飯事のことですので、この程度の歪曲では、特に驚くほどのことでもないでしょう。
【臺北帝國大學醫學部 附属醫院】
(市定古蹟、竣工:1924年(大正14年)、設計者:台灣總督府営繕課近藤十郎)
臺北帝國大學醫學部 附属醫院は、日本の統治が始まった直後に設立された「台湾病院」が前身で、1897年に現在の場所に移転しました。建物は、1912年に着工され1916年にほぼ完成し、1924年に現在の姿になりました。当時は、東アジア最大規模の病院でした。
1938年には、臺北帝國大學醫學部の管轄下に入り附属病院となりました。戦後は、國立臺灣大學醫學院附設醫院となり台湾の医学発展や医療充実に貢献してきました。
建物は現在も病院として使用されています(内部の見学可能)。建物正面の装飾が素晴らしく、入口を入った広々とした正面ホールも見ごたえがあります。内部は噴水のある中庭やその周りに部屋が配され、古代ローマの病院建築にも似た構造です。
正面中央部は、一階が防湿対策で地上より高い場所に作られ窓は長方形で列柱がドリス様式、二階は長窓と半円形もしくは丸型の窓にイオニア様式の列柱、三階はアーチ式の窓と階毎に異なるデザインで凝った造りになっています。
この建物の建築の経緯については、台湾のWIKIにも記載されており、台湾では、今でも俗に「帝大病院」と呼ばれているようです。
【東京帝國大學附属病院】
(竣工:1936年(昭和11年)、設計者:東京帝大営繕課長内田祥三)
東京帝國大學附属病院は、後に東京帝大総長を務めることにもなる、当時の東京帝大工学部教授であり営繕課長を兼務していた建築学の権威内田祥三の設計により建築されたもので、現在でも東大医学部2号館(本館)として使用されています。
内地の予算は、外地よりも制限されていたため、比較的質素なものになっています。
また、裏口のあたりには、今でも未完成の所もあります。
東大の「赤門」をくぐって直進すると、見えてくるのが、この東大医学部2号館(本館)の建物です。
建物の前が西洋式庭園のようになっていて、建物自体も横に長く、両脇に塔屋が付いていますので、遠くから見ると一見、西洋のお城のようにも見えます。
「内田ゴッシク」と呼ばれている典型的な建物で、おなじみの7連アーチが正面を飾っています。
文化財の維持保存は、技術的にも経済的にも、相当の困難が伴うものです。
日台の関係者のご尽力に深甚なる敬意を表するものです。
本日、7月14日、教会などの文化遺産や数多くの貴重な文化財が暴徒に破壊され尽くしてしまったフランスの革命記念日にあたっての雑感です。
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