伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

漢詩を作る(実践編)

    《春宵獨座吹笛麗人圖》


 それでは、前回に引き続き今回は、実際に五言絶句を正格の仄起式で一首作ってみましょう。
 たまたま、今日は、二十四節気の一つ「雨水」ですので、それに因んだものにします。
 詩の主題は、海の彼方の絶海の孤島で、たった一人で病と闘っている友人を力づけるものとします。


 五言絶句仄起式の基本公式は次のようになります。
 此処で、〇は平声、は仄声、◎は平韻を示します。


起句 〇〇 〇〇、(歌い起こし)
承句 〇〇 ◎。(起句の補足)
転句 〇〇 〇、(場面・発想の転換)
結句 〇〇 〇◎。(転句を受けると伴に、詩全体の主題を述べる)


 作詩前に、大まかな詩想を決めておきます。平仄に合う詩語を選んでいる内に詩想そのものが変化することもありますので、題名は、詩が完成してから付けることにします。


 作る順序は、どこからでも構いません。しかし、起句から始めるとだんだん使える漢字が少なくなって、一番重要な結句を作るのに一苦労します。私の場合は、殆ど結句から作ります。それも最後の三文字を最初に決めます。そうすることで、ここでは触れていませんが、正格・偏格が自動的に決まり、承句に使う韻字の種類も決まります。


 結句は、この詩全体を一貫するテーマの結論です。ここでは、雨水を迎え漸く春めいてきた自分の庭を眺めながら、南の島では既に多くの花が咲いていることだろうと想像して、療養中の友人には、その花を見て元気を出してもらいたいという思いを簡潔にまとめます。このとき、「元気を出せ。」と直接書いたのでは、要件を伝えるだけのメールと大差なく詩にはなりません。「多くの花が咲いているだろう。」と包括的かつ曖昧に述べるに留めたほうが余韻が残り、より詩情が深まります。


 結句の最後の三字には「百花開」を選びました。これで、韻は上平声「十灰」のグループに決まりです。その上の二字には「院落」を選びました。中庭という意味です。「中庭」とか「庭園」とかを使いたいところですが、それでは平仄が合いません。したがって、結句は「院落百花開」となります。


 転句は後回しにして、次に起句・承句で雨水を迎えた自分の庭のことを述べることにします。「雨水」は仄仄の並びなので、起句冒頭の二字に使うこととして、とりあえず、承句末の「十灰」に属する韻字を探します。「梅」があるのでこれを使うことにして、後は順次詩語を選んで承句は「東風綻白梅」に決定しました。「東風」は「春風」と同じ意味ですが、後で転句に「南海」が出てきたので、それと関連付けるため、敢えて「東風」に変更しました。「綻」は、花がほころぶという意味です。


 次に起句ですが、承句の「東風」と起句の「雨水」とは対をなす語ですので、ついでのことに起句は承句の対句になるように「雨水霑青柳」としてみました。「霑」は難しい漢字ですが、「湿」と同じ意味です。平仄の関係から止むを得ず採用しました。なお、ここの「雨水」は節気の雨水と本物の雨水とを掛けています。ちなみに対句とは、言葉の意味が相対しながら構文が揃って並んでいる二つの句のことを言いますが、四句からなる絶句では、対句を取る必要はありません。


 最後に転句ですが、前半で自分の庭の、ちまちました風景を詠み込みましたので、大きく発想を変えて、遥か遠くの南国にいる友人を思う心理を描写するため、「遙思南海島」としました。これにより、視線が足元から遥か遠くの海の彼方へと向かい、更に風景描写から心理描写へと発想が大きく変化します。


 題名は、雨水の節気に遠くにいる友人に贈るという意味で、「雨水寄故人」とします。


 これで以下の通り、全文が完成です。詩本文の20字を選ぶのにその10倍以上の漢字がエクセル画面上に散らばっています。ほぼ漢字の数だけ辞書も引いています。


 雨水寄故人


 雨水霑青柳
 東風綻白梅
 遙思南海島
 院落百花開


 訓読体は、次のとおりです。
 
雨水(うすい)、故人に寄(よ)す


雨水(うすい)、青柳(せいりゅう)を霑(うるお)し、
東風(とうふう)、白梅(はくばい)を綻(ほころば)す。
遙(はるか)に思う、南海の島、
院落(いんらく)に百花開くを。

 
 これで、一応完成です。推敲を続けていると次々に気になるところが出てきて収拾がつかなくなるので、このへんで見切りをつけます。


 ここまで我慢強く読み進んでこられた読者各位は、一つ疑問に思われることでしょう。


 「完成しても、結局は日本語の音読みや訓読みにするのなら、苦労して古代漢語発音の平仄に拘る必要などないのでは?」と。
 
 確かに、そのとおりなのです。近体詩というものは、千数百年前の唐人が当時の古漢語で声に出して読んでこそ、妙なる調べを奏でるものなのです。
 私のしていることは、生まれつき耳の聞こえない人が、音楽理論だけを頼りに作曲しているようなものなのです。


 しかしながら、詩に限らず、絵や書や器楽その他のあらゆる芸術も似たようなもので、傍から見れば単なる徒労に過ぎないでしょう。これを、とことん突き詰めると、人類は何故に存在するのかという究極の疑問に突き当たってしまうのです。


 本記事の冒頭、「麗人図」をご覧ください。
 この麗人は、誰かに聞かせるために笛を吹いているのではありません。自分自身の心を澄まし慰めるために、誰もいない閨房で唯一人吹いているのです。


 凡そ君子の楽しみというものは、そのようなものなのでしょう。


 ただ~ 麗人も、誰か聞いてくれる人がいれば、それはそれで嬉しいことでしょう。
 
 私の労作も、終生、本物の発音で聞くことができないのは、やはり少し悲しい・・・


  附言: 我欲您振作起精神來