伊賀の徒然草

伊賀名張の山中に閑居して病を養う隠者の戯言です。

春夜喜雨(春夜 雨を喜ぶ 盛唐: 杜甫)


 今年は、2月19日から3月5日までが二十四節気の「雨水」つまり「雪が雨に変わり、草木が芽吹き始める」時季にあたります。
 この二十四節気を更に3分割した七十二候では、3月1日から3月5日までが「雨水」の末候の「草木萠動」(そうもくほうどう:そうもくめばえいずる)で「草木が芽吹き始める」頃とされており、今が正にこの「草木萠動」の候です。


 本日は、この「草木萠動」の候に相応しい漢詩を一首ご紹介します。


 盛唐の詩人杜甫(と ほ、西暦712年(先天元年) - 西暦770年(大暦5年))の五言律詩「春夜喜雨」(春夜雨を喜ぶ)です。


 作者の杜甫は58年の生涯を通じて病に悩まされ、更に戦乱に翻弄され各地を流浪して生活は困窮を極め我が子が餓死するほどの飢餓に苛まれ続けてきました。
 そのため、彼の作品には、天下国家を憂うるものや人民の苦難に思いを寄せるものが数多く残されています。
 作風は彼の年齢と共に変化していますが、それは苦難に満ちた境遇の変遷に応じて詩風が変化してきたことによります。


 彼の目線は社会の矛盾を厳しく見通すものではありますが、常に病気や飢餓に苦しむ人々への温かい心を表現し続けていました。
 このことが、彼の生存中にはその作品はあまり評価されなかったものの、死後数百年を経て価値が認められて、李白が「詩仙」と称されているのに対し杜甫は「詩聖」と称されて唐代を代表する二大詩人として謳われています。


 今回ご紹介する「春夜喜雨」は、杜甫が都長安の戦乱を逃れて蜀の地「成都」に知人の支援により「浣花草堂」(かんかそうどう)と名付ける居を構えていたころの西暦761年(上元2年)の作と言われています。


 この成都に居住していた3年弱の期間が杜甫にとっては、経済的に支援してくれる友人に恵まれて生活にも余裕があり人生最良の時期でありました。


 そのため、この時期の作品には漸く安住の地に辿り着いたと思う杜甫の安堵感と心の弾みが感じられる作品が残されています。


 しかしながら、この成都での生活も長くは続かず、この詩を書いた翌年にはここでも戦乱が起こり杜甫はまた流浪の生活を続けることになります。


 「春夜喜雨」は、「雨水」の節気、就中「草木萠動」の候に降る恵みの雨を詠じ、錦官城で桃の花が咲き誇ることへの期待感を詠じて結んでいます。


 なお、「錦官城」とは「成都」の別名で、古来ここに天子が着用する錦を織る役所が置かれていたことからこの名が付けられています。 


 詩形は五言律詩、韻脚は生・聲・明・城で平水韻下平聲八庚の韻です。
 なお、頷聯の中の二句(三句目と四句目)と頸聯の中の二句(五句目と六句目)は、近体詩の約束通りそれぞれ対句を構成しています。



  春夜喜雨 
                      盛唐 杜甫
好雨知時節,當春乃發生。(首聯)
隨風潛入夜,潤物細無聲。(頷聯)
野徑雲倶黑,江船火獨明(頸聯)
曉看紅濕處,花重錦官城。(尾聯)


 
 春夜 雨を喜ぶ  


好雨(かうう)  時節を知り,
春に當(あた)りて 乃(すなは)ち發生(はっせい)す。
風に隨(したが)ひて 潛(ひそか)に 夜(よ)に入(い)り,
物を潤(うるほ)して 細(こまか)にして 聲(こゑ)無し。
野徑(やけい) 雲(くも) 倶(とも)に黑く,
江船(かうせん) 火(ひ) 獨(ひと)り明(あきら)かなり。
曉(あかつき)に 紅(くれなゐ)の濕(うるほ)ふ處(ところ)を 看(み)れば,
花は 錦官城(きんくゎんじゃう)に 重(おも)からん。



 春の夜、雨が降るのを喜ぶ


恵みの雨は降る時期を心得ており、
春の訪れとともに降り出して、萬物を芽吹きださせる。
雨は風につれて忍びやかに夜に降り続き、
細かに音もなく萬物を潤おしている。
野の小道と雨雲とはともに黒々としており、
川に浮かぶ舟の漁火だけが明々と見える。
明日の明け方にこの草堂で紅の花が雨に濡れて咲いているのが見えたなら、
錦官城(成都)の市街ではしっとりと重く濡れた花が咲き誇っていることだろう。




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  擬春夜喜雨

                 伊賀山人作

好雨知時節,當春乃發生。

小溪聚雨疾,黃葵覓日菁。

擧頭思雲中,低頭聞夜鶯。

曉看紅濕處,花重玉山城。